「名言との対話」12月8日。徳富蘆花「人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる」
徳冨 蘆花(1868年12月8日(明治元年10月25日) - 1927年(昭和2年)9月18日)は、日本の小説家。享年60。
兄・徳富蘇峰と弟徳富蘆花は5才違いの兄弟であるが、蘇峰が「予は一家に於いて、恩愛の中心であるよりも、むしろ尊重の中心であり、蘆花弟は尊重の中心であるよりも、むしろ鐘愛の中心であった。」と述べているように、年齢差以上の意識の違いがあったようだ。天才と同時に問題も抱えた「難物」である弟を、兄蘇峰は冷静に、しかも愛情を持って見まもっていた。
瀕死の蘆花が兄徳富蘇峰と14年ぶりに面談し和解した記念館の建物が移築されている。徳富蘆花記念文学館は群馬県渋川市伊香保にある。その日の夜に蘆花は60年の生涯を閉じた。ドラマのようだ。この徳富家は、父は93歳、母は91歳、そして兄は94歳で亡くなっているから長寿の家系であろう。ただこの健次郎蘆花だけは60歳でみまかっている。
「彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である」。彼とは蘆花自身である。変転の多い起伏に富んだ人生をこの数行で表している。同志社での学び、兄徳富蘇峰の雑誌記者、、、。そして巡礼紀行を終えてトルストイのすすめる農業生活に入る、そして最後は美的百姓で終わる。すべてが本物ではなく、真似であったというのが人生の総括だったのだろうか。
「兄貴は日本国民史を書くが、予は兄貴以上に重大なる人間の記録を書く」と野心を吐露していた。蘆花はライフワークは書いたのだろうか。徳富蘆花の代表作の一つ「みみずのたはこと(岩波文庫」は、蘆花の考えがよくわかるエッセイ集だ。かなりの長期間にわたってベストセラーを続けている作品だった。108版には11年で10万余部となっている。この著書から、蘆花は蘆花という雅号を廃し、本名の徳富健次郎で出版していく。1977年に書かれた巻末の解説は中野好夫だった。。
「みみずの真似して、土ほじくりする間に、折にふれて吐き出したるたわ言共をかき集めたるものなり」「土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短編小説、瞑想、書簡、紀行等を集む」「年40にして初めてしかと大地に脚を立てた最初の記録です」
上巻は「彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。」から始まる「美的百姓」という項がある。この短いエッセイの最終部分は、こうだ。「彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。」変転の多い起伏に富んだ人生をこの数行で表している。同志社での学び、兄徳富蘇峰の雑誌記者、、、。漁師だったということは私の記憶になはいが、巡礼紀行を終えてトルストイのすすめる農業生活に入る、そして最後は美的百姓で終わる。すべてが本物ではなく、真似であったというのが人生の総括だったのだろうか。
都心の青山から人力車で1時間半かかる武蔵野粕谷へは、自動車ができたことで30分の距離となった。そして1912年に敷設工事が始まり笹塚調布間で運転を始めた京王電鉄のことも話題に出てくる。東京の寺院墓地移転用敷地2万坪買収事件に対する憤慨など、興味深い叙述もある。新宿から府中まで開通して朝夕の電車が東京へ通学する男女でいっぱいになったり、この村から夏の夕食後にちょっと九段あたりまで縁日を冷かしに行って帰ってくることができるようになったとの記述もある。
「世界一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。諸君が手をたたいて喝采しました。お世辞ではありません。全然(まったく)です。」というほど、気に入った場所で「幼稚な我儘とと頑固な気まぐれ」の持ち主であり、兄から「多情多恨」と言われた蘆花は、土の生活に入った。長短のある気ままなエッセイは当時の田舎の生活と筆者の感覚を伝えてくれる。やはり蘆花は文章がうまい。
徳富蘇峰『弟 徳富蘆花』(中央公論社)より。「予は、彼に向かって如何なる貢献をなしたか、自ら之を審にする事は出来ない。併し順縁にも逆縁にも、彼の兄貴として兄貴たる丈の役目を自ら尽し得たといふ事を喜んで居る。」「彼は嘗て人に向かって、「兄貴は日本国民史を書くが、予は兄貴以上に重大なる人間の記録を書く」と言った。」「蘆花夫人は予に向かって嘗て、「我夫は非常なる兄様思ひである」と言うたが、予は素直に之を肯定するものである。同時に予も亦同様である事を今ここに告白して置く。」「私は私が人心付いてから今日に至るまで、弟に対する感じと言ふものは毛頭変わりませぬ。」「是まで私の書いた著作の中に、弟の悪口などと言ふ様な事は、一言半句も書いた覚へは無いのであります。」「此間は我等の兄弟は、僅に二里位の距離を隔てたる青山と千歳村に住みつつ、一切没交渉で過ぎた事は、余儀なき行きがかりであったとしても、予としては遺憾であった。」「殊に予が妻は平生かかることを容易に口にせぬに拘わらず、其時は我弟に向かって、「日本一の善き弟である:と言うたが、病人は「いや、日本一の善き兄貴である」と言った。」「病人も其病が結局落着く所を自覚したと見えて、「後は宜しく頼む」と言ったから、予は「左様の事は一切心配するな」と言った。」
私にも弟がいるが、蘇峰と蘆花に関する本を読むと、常に兄蘇峰の側に立ってしまう。石原慎太郎が二つ違いの弟・裕次郎のことを書いた『弟』を読んだときも同じような気持ちになった。「蘆花弟は一般人よりも、より多く多情多恨の性格の持主であった」と述べた蘇峰は自身が見た実例をあげているが、その蘇峰も同じような性癖を自覚していたがゆえに、自らを励まして剛健不屈の生活をしようと心がけたのである。
京王電鉄の蘆花公園という駅の名前を聞くたびに蘆花と蘇峰の兄弟のことを思い浮かぶ。京王線蘆花公園駅で降りて徒歩15分で蘆花公園に着く。蘆花は「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送った。蘆花が恒春園と名付けた自宅の後でが現在では公園になっていて、私鉄の駅の名前にまでなっている。兄の蘇峰が住んだ大森の住居跡も公園となっている。蘆花が植えたモウソウチクの林やクブギ、コナラなどの雑木林が紅葉で美しく、武蔵野の面影が残っている。この公園には、20年間住んだ徳富蘆花旧宅と蘆花記念館がある。蘆花記念館には、身辺具、小説などの作品、原稿、農工具などの遺品が並べられている。
徳富蘆花(1868−1927年)は、本名は健次郎。熊本県水俣の惣庄屋兼代官をつとめる名家に生まれた。5つ違いの兄が蘇峰(徳富猪一郎)である。少年期に京都同志社に学び、いったん熊本に戻った時期にキリスト教に入信する。後に同志社に復学したが、新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、上京する。兄蘇峰の経営する出版社・思想結社、民友社に加わる。同社の「国民新聞」「国民之友」などに原稿を寄せ、1898年(33歳)に書いた代表作の『不如帰(ほととぎす)』は、実に50万部の大ベストセラーとなり一世を風靡した。この本は、大山巌の長女信子とその嫁ぎ先との不和を題材としたもので当時の人々の共感を呼んだ。
日清戦争を契機に、蘇峰が平民主義的な立場から国家主義へと思想的立場を転じていく中での思想対立があり、1903(明治36)年には民友社を去り、自費出版した「黒潮」の巻頭に、兄との決別を告げる「告別の辞」を掲げる。その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験する。そして、1906年(39歳)ではパレスチナへの巡礼の後トルストイ邸には5日間滞在し、農業生活をすすめられている。晩年のトルストイと一緒に馬車に乗った貴重な写真も見ることができる。トルストイから「君は農業をして生活できないか」と助言を受けている。トルストイについて「世を照らす光はこれと人知るや 翁が窓のともし火のかげ」との歌も詠んでいる。
1911年には一高(新渡戸稲造校長)において「謀反論」を講演し、物議をかもす。1911年の一高弁論部の河合栄次郎・河上丈太郎らの要請で行った演説「謀反論」の資料をみると、「幸徳君(幸徳秋水)らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。、、、」から始まっている。そして「新しきものは常に謀反である」との言葉が続いている。この講演は大きな問題となり、校長の新渡戸らは処分を受けている。そして1919(52歳)年には愛子夫人を伴い世界一周の旅にも出ている。
ベストセラー作家、文豪という名声が負担になって、納得のいく作品を書くこと、自分にしか書けないものを探し回った。「トルストイは30代で『戦争と平和』を書いた。おれは50代でやっとおれのモニュメンタルワーク(金字塔)に着手しようとしている」
蘆花は1927年に永眠しているが、療養先の伊香保において絶縁していた蘇峰と対面し、和解する。そしてその夜に永眠する。享年は数えで60歳、満58歳だった。兄蘇峰は95歳までの長寿を全うしたのに比べるといかにも若い死である。
蘆花記念館では、資料らしきものは売っていない。わずかに、蘆花恒春園の絵葉書、「急がじな楽しみ積まむ父の秘す いのちの書(聖書のこと)を日に一葉づつ」という短歌、そして「天皇陛下に願ひ奉る」と題した幸徳秋水らの大逆事件の首謀者とされた12名の助命を嘆願した書を売っているのみである。
「人間は書物のみでは悪魔に 労働のみでは獣になる」。この「悪魔と獣」の言葉には凄みがある。書物を毎日読んでいて労働をしない学者という知的な職業は悪魔を生み出す。逆に労働のみで書物に触れずに酒とテレビで毎日を惰性的に送るならば野獣と同じだ。人間は悪魔と獣との間にある。肉体と精神のバランスをとるべきだ。労働しながら書物を読み読み続け、自分で考えよう。それが人間の証なのだ。