「名言との対話」3月1日。岡潔「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのが不思議です」
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、論文博士)。
大阪市生まれ。三高、京都帝大理学部卒後、そのまま大学に残った。湯川秀樹、朝永振一郎らに授業で感銘を与えている。1929年、フランスに留学し3年間を過ごす。1932年に帰国し広島文理大学助教授。病気で辞任し故郷で研究生活に入る。
戦後の1949年、奈良女子大教授。定年退官後には京都産業大学で「日本民族」という教養科目を講義した。文化勲章受章者。
岡潔は高名な数学者である。多変数複素関数論で数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞している。幾何、代数、解析を一体とした分野を開拓した。業績があまりに広範囲であり、一人のなした業績とは信じられないといわれた。
20世紀が始まった1901年に生を受けた数学者であり、。同い年には昭和天皇やウォルト・ディズニーなどがいる。数学者としての業績は素晴らしいが、岡の書くエッセイが多くの人に喜ばれた。私たちの受験時代には、入試の試験問題にも多く採用されていた。晩年には「日本民族」という講義を持つなど、日本論を語る憂国の士という印象を与えている。
数学教育の目的は決して計算や論理にあるのではない。かたく閉じた心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするのにあるのだ。
民族の色どりと、その人の心の色どり。一致する人を、私は純粋な日本人といっている
芭蕉や道元。私は芭蕉は純粋な日本人だと思っている。道元の『正法眼蔵』(岩波文庫)、なかんずく「上」から、自分は純粋な日本人であるという自覚を、いわばスミ書きすることができた
仏教では知、情、意を総称して智と言う。智が働いていると思うその智を分別智と言う。分別智が働かなくなる境に真の智力が実はよく働いているのであって、これが無差別智である。真智とも言われている。
仏教では心を九層にわけています。心の奥底が第九識です。これは生命それ自体であってこれは姿に現われません。 その上の第八識は、個人、民族、人類、獣類、爬虫類、魚類、単細胞生物、其の前は教わっていませんから知りませんがこういった個人の過去の一切を蔵する所だといいます。 その上の第七識が小我の本体です。 その上の第六識を意識といいます。 その上を前五識といいまして、眼耳鼻舌身と云いますが、見る聞く等の五官です。 第六識はこの前五識を統べ、自身第六の感覚器です。これが心眼です。 人の肉体はこの心の模型です。 それで相当個所をいいますと、 第八識は大脳皮質部に極っていると思います。 第七識は全身ですが、其の中心は大脳前頭葉です。 第六識も
大脳前頭葉です。 かように大脳前頭葉には六、七の二つが同居し、心は下程力が強いですから、小我の中心自我を抑止しなければ、心眼は開きません。
一、二、三歳では母が愛と信とを教え、四、五、六歳では父が信と欲とを教えて道義の根本をおしえるべきだ。心が幼ないころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない。
宗教と宗教でないものとの違いは、孔子と釈迦やキリストをくらべればはっきりする。孔子は「天、道を我に生ず」といっていが、この「天」は「四時運行し万物生ず」といった大自然の行政機構のことである。また「仁」については説けず、ただ理想として語り得たにすぎない。孔子の述べたものは道義であって、宗教ではなかったといえるだろう。
宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想も 向上なく理想もない世界には住めない。
私たちの国というのは、この、人という水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。これが国の本体
個人について見るに、楠正成の妻は、夫の敗死を知るやただちに正行たちを育てることに専念し、フレデリック大王の御妃は、夫の降伏を知るや時を移さず二王子の養育に専念した。国についても同じことであろう。敗戦の痛手を治すには、よい母たちを育ててよい子たちを産み、よく育ててもらうのが何より大切だ。
進駐軍が日本人を職工にしてしまおうと思って始めさせた教育だろう。
教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であってそれ以上によくすることはできない、これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしい。
日本は危険な方から危険な方へとだんだん歩き続け、その歩みを止めない。それは今日もなお続いている。
この先日本が立ち直るのに、じゅうぶん百年はかかります。それから国内を整備するのにもう百年、残る百年で生物の絶滅を救わなければならない。
教育はそれに備えて、歳寒にしてう。 顕れるといわれている松柏のような人を育てるのを主眼にしなくてはならないだろ
六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであろう。
以上だが、この警世の書『日本の心』は、1961年から1965年までの5年間にわたって書かれている。それから60年後には精神の危機が訪れるという予言である。現在の2021年から2025年がそれにあたる。翻って今の日本をみると、日本人が持っていた良さが急速に失われており、岡潔の予言のとおりになっていると感じる。
また、岡潔は物事に極端に入って行けという。極端に何かをやるとはどういうことだろうか。興味のある対象にのめり込んでいくのがこれにあたるだろう。寝食を忘れて徹底的に対象にハマっていくと、好きになっていく。この言葉はよくわかる。
興味がなかった対象に挑むことになった。仕事で異動し苦手だろうと思っていた新しい分野を担当することになる。それをピンチと考えるか、チャンスと考えるかが成長の成否を決めるのだ。
組織に属しているなら仕事は選べないことが多い。それにもかかわらず活躍している人はまるで天職のように振る舞い、輝いているのを目にする。こういう人は普通に仕事をこなしているのではなく、極端にそのテーマに取り組んでいるのだ。処理ではなく問題を解決しようとしているのである。問題の解決を面白がっているのだ。高いレベルで問題を解決するクセをつける、そういう経験が積み重なっていくことがキャリアを磨くということなのだ。
中庸、バランス人間の集まりでは、未来はない。きっかけは何でもいい。ものごとに極端と思えるほどに、打ち込もう。必ず好きになり、自然に上手になっていく。その延長線上に創造の世界がある。そこに到達する人を増やすことが、低迷をようやく自覚しつつある日本を再建する鍵なのだ。
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