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「名言との対話」3月30日。芥川比呂志「俺が死んだら、つまらなくなるぞ」

芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。

芥川龍之介の長男。應義塾大学仏文科卒業。加藤道夫とつくっていた「麦の会」から 1948年文学座に参加。恵まれた容姿と知性で『ハムレット』の主演 (1956) で成功。19 63年に岸田今日子らと文学座を脱退し、福田恆存の指導のもとに劇団雲を結成。1975年に再び岸田らと「雲」を脱退して演劇集団円を創立する。演出にも意欲をもち、『なよたけ』 (1955) 、『榎本武揚』 (1968) などを演出した。

『芥川比呂志エッセイ選集』を読んだ。山崎正和がいう「3冊の素晴らしい随筆集」がすべておさめられた本だ。「決められた以外のせりふ 」(1970年)は、第18回日本エッセイスト・クラブ賞。を受賞している。後は、「肩の凝らないせりふ (1977年)「。憶えきれないせりふ」 (1982年)の3冊である。

芥川と言う名前は、三河の百姓が、敗戦で負傷した徳川家康を背負って川を渡した。その功召しだされた。その川が芥川といったところから、家康にもらった姓である。

芥川龍之介の長男で、命名は「多門」にするか「比呂志」にするかを決めかねて、子どもに握らせて手が強く動いた方を選んだという。つまり自分で選んだのだ。父は決めかねた、迷った。それは父らしいと比呂志はいう。龍之介の書斎は8畳間だ。『芥川龍之介全集』の題字は子どものころの比呂志の字である。文豪の全集には珍しく、全体に稚拙な字であり、とくに「全」という字のかさの部分が太くなりすぎていることを比呂志は残念に思っていた。

このエッセイ集の初めに「小自伝」という短い項があり、「すべては仕事の中にしかない。狂気からすっかり冷めきらないうちは、本当の自叙伝はかけないだろう」と結んでいる。父の芥川龍之介についてのエッセイも面白いが、比呂志の仕事論を聞こう。

芥川の演出論。

演出と言うのは芝居をこしらえることであり、自分は舞台にでないで、役者やその他の人たちに指図をして、全部をまとめることであり、だから1番偉い、1番大変な人だということがわかった。 
劇作家が種をまき育てあげた材料を、演出家と俳優が舞台の上で燃焼させるのです。
優れた演出家は、資質や芸のいかんを問わず、戯曲は役者から、思いがけない新鮮な生命感を引き出します。
優れた戯曲、よい戯曲でなければ、優れた、よい芝居にはなりません。
私は、その芝居が、芝居と言う形でしか表せないものになっているかどうかということを、いつも芝居を見る時にも、自分で芝居をする時にも、考えることにしています。

次に役者論。

役者。「役」と「者」。役とそれを演じる人間、その2つが結びつかないと「役者」とはいえない。
役者の仕事は残らない。役者の仕事は肉体とともに滅びてしまう。その代わり、庇を借りて母屋を取るずうずうしい男のように、優れた役者たちは役を作者から取り上げる。

演出者とは、脚本・シナリオにもとづいて、俳優の演技、舞台装置、種々の効果などの各要素を総合的に組み立てる人のことだ。 作詞、作曲をもとに、楽器を組み合わせて、作品に仕上げていく、音楽における編曲者と同じ役割だろう。共通するのは情報の編集者ということだ。編集も独創である。

瑠璃子夫人によれば、夫は「むだのなさすぎる人」だったそうだ。常に考え、行動し、燃焼した。比呂志が小2の8歳のときに亡くなった父の龍之介は「人生とは戦闘なり」と遺書に書いたが、それに倣ったのではないかとしている。書斎人と行動人の2つの極の振幅の中を生きたのだ。ユーモア感覚のあった芥川比呂志は家庭内では「俺が死んだら、つまらなくなるぞ」と言ってニヤリと笑ったそうだ。それは演劇界にもいえるのではないだろうか。

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