「名言との対話」1月14日。和田勉「てれびじょんトハツヅメテイエバわが身のことでデアル」
和田 勉(わだ べん、1930年(昭和5年)6月3日 - 2011年(平成23年)1月14日)は、日本の演出家・映画監督。享年80。
高校2年の時に、父は本は好きなだけツケで買ってよいと言ってくれたため小説を読みふけった。新設の早稲田大学第一文学部演劇科に入り、卒論は「テレビドラマ」を選んでいる。そして就職は職員の公募が唯一だった「文化(テレビドラマ)」が作れるNHKに入社する。最初の勤務に大阪勤務を希望している。東京にない3つのものを学ぶためであった。漫才、文楽、宝塚である。8年の大阪時代が「僕をつくった」と言う。「大阪に和田勉あり」と注目された。
和田勉『テレビ自叙伝ーさらば、わが愛』(岩波書店)を読んだ。和田勉の人生行路を眺めると、和田勉という人はなかなかの戦略家であることがわかる。そして迷うことなく一直線の人生を送っている。
「映画は見るものであり、テレビは聞くものである」
「テレビはアップだ」
「ドラマというものは『男と女』の『ツーショットから始まる』」
「同じ役者とはほとんど二度と仕事をしない主義」
「分秒進歩の中を突き進んできたわれらの『テレビ』」
「てれびじょんトハツヅメテイエバわが身のことでデアル」
テレビの勃興期を走った和田勉は「テレビが映画を打ち倒す」という気概で文化をつくるために邁進する。「竜馬がゆく」(司馬遼太郎)「阿修羅のごとく」(向田邦子)「鹿鳴館」(三島由紀夫)「天城越え」「朱鷺の墓」(五木寛之)などを演出しヒットした作品が多い。
「ドラマの形式を新しくするんじゃなくて、役者を新しくしていくことが僕らの任務だと思ったんです」とし、浅丘ルリ子、佐久間良子、岩下志麻、美空ひばりなどの新しい魅力を引き出した。
本人があげた代表作は、1959年の「日本の日蝕」(安部公房)と1980年の「ザ・商社」(松本清張」の二つである。山崎努と太地喜和子をよく起用した。
手がけた作品が芸術選奨文部大臣賞、放送文化基金賞本賞など軒並み賞を受賞している。「術祭男」の異名もある。妻は衣装デザイナーのワダエミで、「オレの作ったドラマ以外はつまらん」と断言していたそうだ。
定年後に、タモリの「笑っていいとも!」のレギュラーとして、「ガハハおじさん」と呼ばれた。日清、月桂冠、UCCなど企業のCM出演などでブレークし、思いがけずに茶の間でも人気がでた。その余録で信州松原湖にワダベン博物館を建てている。晩年は癌に冒されたが、延命治療はしなかった。
和田勉はメモ魔であり、それが発想のもととなった。また高校・大学時代から亡くなるまでずっと日記をつけていた。『テレビ自叙伝』の最大の資料がその日記だった。
「同じ役者とはほとんど二度と仕事をしない主義」と言い、ドラマのキャスティングでは一緒に仕事をするのは一回のみというルールを自分の課していた。そのため夏目雅子からは抗議を受けている。思うに、狎れることを恐れたのではないか。一作一作、新鮮な気持ちで作品を創っていく真摯な態度がNHKだけでなく、テレビを代表する名演出家を形づくったのだろう。
「分秒進歩の中を突き進んできたわれらの『テレビ』」。「分秒進歩」のテレビの創成期を疾走し、テレビを「われら」と呼んだ。その先に「そして「てれびじょんトハツヅメテイエバわが身のことでデアル」と、テレビとは自分であると自負した大胆な宣言を行っている。仕事師はこうでなくちゃいけない。