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「名言との対話」2月27日。金子直吉「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」

「名言との対話」金子直吉「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は、日本の実業家。

高知県出身。10歳から丁稚奉公。質店で働く傍ら、質草の本を貪り読み、独学で経済や中国古典に関する膨大な知識を身につける。1886年、20歳で神戸八大貿易商に数えられる鈴木商店に入る。番頭として経営を切り盛りし、1900年には台湾樟脳の販売権の65%を得るまでになった。「生産こそ最も尊い経済活動」という「工商立国論」をもとに、鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまでの80社を超える生産工場中心の一大コンツェルンを形成した。

『幕末商社考2』(姉崎慶三郎)を読んだ。また「鈴木商店記念館」の記述を読んだ。

「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」。そして第一次世界大戦時のロンドンの高畑誠一支店長への打電「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(金に糸目をつけず、ありたけの鉄と物資を買え)。この判断で鈴木商店は、三井物産を超えて、日本一の総合商社となった。

鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店)に金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせものだ」。直吉は「無欲恬淡」で、念頭にあるのは「事業」のみ、私利私欲はなく、終生借家住まいで、私財も残さなかった。

倒産の報告に対してオーナーの鈴木よね「しかたおまへん。わてはあんたが生きていてくれはったらそれでええ」。オーナーの信頼の厚さがよくわかる逸話である。

福沢桃介は「財界のナポレオン」と讃えた。渋沢栄一は「事業家としては天才的だ」と評した。北村徳太郎(鈴木商店佐世保支店長、大蔵大臣)は「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった」。

鈴木商店は無くなったが、高畑誠一らは直吉の精神を継承し、日商をつくり、現在では双日となっている。また1967年に開催された神戸開港百年祭では当時の市長から「あなたは神戸に一大総合商社を育て上げ、今日の港都繁栄はあなたの功績によるところまことに顕著なものがあります」と讃えられた。事業を展開するということは、国を富ますことになる。直吉の功績は国に対しても大きいものがある。

直吉は俳句を趣味としていた。「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」という気宇壮大な句を詠んでいる。学校に行けなかった自分を、農民から太閤にまで出世した秀吉に、また一兵卒から皇帝にまで昇りつめたナポレオンになぞらえて邁進したのだろう。

鈴木直吉という傑物は、日本独特といわれる総合商社を育て、近代日本の成長に大いなる貢献をしたのである。


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