見出し画像

「名言との対話」7月19日。山岡鉄舟「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、旧字体: 山岡 鐵舟天保7年6月10日1836年7月23日〉- 明治21年〈1888年7月19日)は、日本幕末幕臣剣術家明治期官僚政治家の達人。享年53。

江戸生まれ。武術に天賦の才能をもち「無刀流」の開祖となった。身長6尺2寸(188cm)、体重28貫(105kg)の巨漢であった。勝海舟高橋泥舟とあわせて、幕末の三舟と呼ばれた豪傑である。

この人のエピソードにはことかかない。それは南條範夫山岡鉄舟』、津本陽『春風無刀流』、神渡良平『春風を斬るーー小説・山岡鉄舟』、山本兼一『命もいらず名もいらず』などに取り上げられていることでわかる。また映画、漫画、アニメ、テレビなどでも紹介されている。

ここでは、山岡鉄舟の行った一大事業を取り上げよう。幕末の官軍による江戸総攻撃の直前に、勝海舟の前払いとして徳川慶喜の命を受けて、命の危険を顧みず単身新政府軍に乗り込んで、西郷隆盛と面会する。江戸無血開城のために西郷が出した条件の最後の「将軍慶喜備前藩に預ける」だけは鉄舟は拒否する、その赤誠に打たれた西郷は撤回する。後に西郷隆盛は、この鉄舟を念頭に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」と評したのである。この有名な言葉は、山岡鉄舟のことだったのだ。

もののふ(武士)というものは、出処進退を明らかにし、確固として自己の意志を決した以上は、至誠をもって一貫するのが、真の武士でまた武士道である」「道は千載不滅だよ。いかなる大敵も、道には勝てぬ」「人は至誠をもって四恩の鴻徳を奉答し、誠をもって私を殺して万機に接すれば。天下敵なきものにして、これが武士道である」、こういった武士道の実践者が天下の偉業を成し遂げたのである。武士道とは人道のことであろう。

2017年に静岡市清水区清水次郎長の跡を訪ねた時に鉄舟のことを知った。鉄舟は次郎長と意気投合し、大きな影響を与えている。やくざの大親分であった次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわった清水の恩人である。

山岡鉄舟の薦めで次郎長は富士裾野の開墾に着手する。県令に助成金と静岡監獄の囚人(模範囚)を使う許可を得た次郎長は、現場では囚人の腰縄を外し、家族との面会を自由にした。そして自ら汗を流し、大政や天田五郎ものちに監督作業にあたった。開墾は17年間におよび、耕した土地は76ヘクタールに達した。

山岡鉄舟の義弟、石岡周造が遠州相良の油田を開発。 鉄舟の依頼により次郎長は、石坂を助けて相良株式会社の株券を募集して、石油開発に協力した。現在でも この場所の近くにくみ上げられる油井がある。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。鉄舟は次郎長に大きな影響を与えている。

以下、鉄舟の言葉。

・およそ大凡人たるものは、誠忠が肝要である。ゆえに時変に接しては死を見ること帰するがごとき確固たる心胆を動かさぬように鍛練が第一である。

・人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可らず。

・善きところはどしどし取って、これを食い、かつこれを消化して、わが物とせよ。もしわが日本国体には、食中毒とみたなら、我が国の領海に着かない中に、航海中に海に斬り捨てよ。

・晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり

山岡鉄舟については、よく目にするが、西郷隆盛に「命もいらぬ、、、」という名言を吐かせた人物として記憶することにしよう。

いいなと思ったら応援しよう!