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「名言との対話」8月10日。山田かまち「僕には24時間では足りないよ」

山田 かまち(やまだ かまち、1960年(昭和35年)7月21日 - 1977年(昭和52年)8月10日)。

17歳の時自宅の2階でエレキギターに感電死する。死後、母親がかまちの部屋のベッドの下から沢山のかまちの詩や絵画が発見された。それをおさめた『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(1992年)がきっかけで世に広く知られるようになった。
2006年06月3日ニ山田かまち水彩デッッサン美術館を訪問した。高崎のホテルでの会合を終えて、新幹線の時間まで2時間近くあったのでタクシーに乗る。中年の運転手さんに行き先を告げる。「かまちはハンサムで女性に人気があります。美形でした。私と同い年です。」と言う。17歳で亡くなった山田かまちは生きていれば46歳、このくらいの年頃になっているのだなあと思いながら、運転手の盛り上がった肩や顔を眺める。「山田かまち水彩デッサン美術館」は画廊の隣にひっそりと建っていた。

かまちは昭和35年生まれ。3歳の時には浜田広助の童話「あいうえお」を暗誦、5歳では怪獣を描く、8歳では25枚の小説を書く、小学校の3年生の冬休みにかまちは1時間という短い時間で36枚の動物画を描く。鳥、チータ、サンショウウオ、水牛、てんとう虫、、、。かまちは動物が好きだった。11歳、子供写生大会で藤五社長賞、カラヤンのファンになる。12歳、読書感想文「山田長政」入選、謝恩会の構成詩を作詞・作曲・ピアノ演奏。中学校では、芥川龍ノ介を好み、天体望遠鏡で冬の空を眺める。SF小説に興味。14歳、ジイド、トルストイに傾倒、SFや詩も書く。アイドル桜田淳子のファン。15歳、原始社会に憧れ絵を描く、氷室京介らとロックグループを結成。16歳高校受験に失敗し浪人、17歳高崎高校入学。そして昭和52年8月10日、高崎高校1年生の夏、山田かまちは自宅でのエレキギターの練習中に感電死する。絵、詩、音楽、天体観察と「僕には一日が24時間では足りない」という言葉が口癖のかまちのあっけない死であった。自室のベッドの下からは数百枚の水彩画とデッサン、詩と童話が発見された。

 ぼくはロックシンガーになりたい/ ぼくはすぐれた画家になりたい/

 ぼくはとても金持ちになるたい/ ぼくはすぐれた作曲家になりたい/

 ぼくは優れた作家、作詞家になりたい/ ぼくは125歳以上は生きたい/

 ぼくはしぶくかっこよくなりたい/ ぼくは人類を幸福にしたい/

 ぼくはすぐれた人に愛される思想家になりたい/ ぼくは感動的な雄弁家になりたい/

 ぼくはとても健康でエネルギッシュな紳士になりたい/ ぼくは幸福になりたい

 ぼくは食べたいとき食べたいものを食べたい/ ぼくはすばらしい美術を完成したい

 ぼくはダウンしたくない/ 

ぼくは高崎高校に合格して楽しくすばらしい高校生活がほしい/ ぼくは君がほしい!

 ぼくは高高に合格したい/ ぼくはすぐれた演奏家になりたい!/

 ぼくはすぐれた科学者になりたい!/ ぼくは真理を発見したい/

 ぼくは人々に愛される人物にならなければならない

鹿麻知(かまち)という名前は、「日本歴史物語」(河出書房新書)の中に縄文時代の少年の名前として出てくる。父・山田秀一によれば、平仮名したのは後で自由に意味を持たせることができるからである。かまちこの名前が完全な父の独創でないことを残念がったが、気に入っていた。

かまちは絵もいいが、言葉がいい。

死の前日の絶筆。 人間の一生なんて/  線香花火のように   はかないものだ

 朝 気持ち良く起きて/ ほんとうに気持ちのよい一日を過ごす。/

 そのためにすべてはあるのだ。/ 気持ちのよい食事/ 気持ちのよい活動/

 気持ちのよい愛/ 気持ちのよい−−−眠り/ なんのいや気のない生活

 そのためにすべてはあるのだ

 幸せな人/ 幸せな人幸せな人は/ あまり幸せでない人を幸せな幸せな人にする

小学校からの同級生でロックバンドを組んでいた親友・氷室京介(ロックバンド「BOØWY」のボーカリスト)は次のようにメッセージを贈っている。

 キース・ヘリング アンディ・ウオーホール/ 足早に、その生涯を/ 駆け抜けていった/ 愛すべきクリエーター達/ ビンセント・ヴァン・ゴッホ エコン・シーレ

 ドラマティックにその一生を送ることを運命づけられた天才たち/

 そして君も生まれながらにして選ばれた者達だけが持つ独特な輝きを持ち合わせていたよね/ せめて、あと10年、、、/ あの非凡で多彩な才能を奪う事が できたら、、、、/ 君を思い出す度に その事をとても/ 残念に思います

山田かまち水彩デッサン美術館には、多くの人がノートに書き付けを残している。それぞれに人が生きる勇気をもらっている。

 ・ずっと昔からかまちの存在は知っていた。/ここにくるまで27歳になっていまし

た。

 ・中学生の終わり頃、あなたの存在を/  知りながら、25歳になる今、やっと

  ここに来て、あなとのつづった詩や絵に触れています

 ・6年前、17歳の時、君の詩と絵、生き方を知ってすごく感化され  受験勉強を放

棄して、三重県津市からここまで野宿をしながら 自転車旅行をしました 23歳に

なった今、またここに来ました

・4度目の訪問です、17歳になりました 

・25歳の社会人です

 ・19歳です。17歳の時に来たかった

 ・60代の定年退職者。君に負けないように「生きたい」

山田かまちの文章、絵、詩、写真は、国語、社会、美術、英語などの教科書に載っていて若い人は知っている人が多いのだ。

かまちが詩を書き、絵を描き続けた対象が、佐藤真弓さんである。かまちは好きでたまらなかったが、佐藤さんはとまどっていたようだ。しかし、遺作展を見て「一生涯にこんなに愛されることがあったのかと、言葉にすることができないほど感動しました」との言葉が作品集の中にあった。佐藤さんはいまでも独身だということだ。

この日の訪問者は私一人だったので、館長の広瀬毅郎さんとゆっく話をする機会があった。隣に画廊を営む広瀬さんは、井上房一郎氏(美術評論家)が遺作展を開きたいので画廊を貸して欲しいとの申し出を受ける。かまちの絵と激しく短い生涯に魅了され、「宮沢賢治に似ている」と思い、かまちの絵と詩を飾るレンガ造りの小さな美術館を建てようと決心する。その3年後平成4年に美術館がオープンすることになる。「広瀬さんはいい仕事をしてしましたね」とねぎらう。山田かまちの人生の不思議な余韻にひたりながら美術館を後にした。

「24時間では足りないよ」と言っていたかまちには、17年の生涯しか与えられなかった。しかし、永遠の命も授かったことになる。


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