「名言との対話」8月9日。麻生豊「二度と再びこの痛苦を子供や孫に味あわせたくない」
麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 - 1961年(昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は麻生 豊(あそう みのる)。
大分県宇佐市出身。18歳で上京しエンジニアを目指すが、北沢楽天の漫画家養成塾「漫画好楽会」に入会。
1923年、報知新聞社に入社し、漫画記者となる。関東大震災が起こり、世の中を明るくする漫画「ノンキナトウサン」の新聞連載を始める。1924年、「ノントウ」は600回以上続き、6冊の単行本となった。1929年、読売新聞社に入社し、創刊された「読売漫画サンデー」に「続ノンキナトウサン」をなどを掲載。1932年、朝日新聞社に入社、翌年「只野凡児・人生勉強」が新聞に掲載される。
戦時中は中国戦線に従事したのち、軍の報道班員として、満州・蒙古・中国北部や、ジャワ島に赴いている。
終戦後の1943年、日本漫画公報会の理事長(会長は北沢楽天)。銀座にアトリエを持ち、1946年に「銀座復興絵巻」を描き始め1961年までに22巻を描く。1950年、中部日本新聞の客員となる。「がっちゃん」「息子の時代」を描く。1954年、大分合同新聞に「平和くん」を掲載。1961年、63歳で死去。
「ノンキナトウサン」は、ノロマで要領の悪く失業を繰り返す人物が織りなす騒動を描いた4コマ漫画。「只野凡児」は、純真で気が弱いノンキナトウサンの息子の大学卒業後のサラリーマン生活を描いた作品。
高校時代だったか、学生帽をあみだに被っていたら、父から「ノンキナトウサン」みたいだと笑われた記憶がある。そのとき、はじめて「ノントウ」を知った。
2006年には出身地の宇佐市民図書館で「没後45年記念 麻生豊の世界」展が開かれている。「時代の先駆者となって戦前戦後のうち沈んだ人々の心に、明るく生きる希望と勇気を与えてくれました」との主催者の「あいさつ」がある。同郷の宇佐市出身の双葉山と一緒の写真と、双葉山が麻生豊を撮った写真も展示された。
「銀座復興絵巻」の作品の一つだと思われる、戦後の苦労がわかるようなリュック姿と母子の漫画の説明書きがある。「二度と再びこの痛苦を子供や孫に味あわせたくない」の前には、「十年たち二十年すぎたら、終戦の泥沼の生活も、のどもとすぎればのたとえで、忘れてしまうかもしれない。忘れるにはあまりに勿体ない体験だ」があり、後には「肩にくいこんだリュックの重みを、汽車でつぶされた痛さをいつも思ひだそう。明日を創り出すために」という文章だ。
麻生豊という漫画家は、関東大震災、大東亜戦争、戦後の窮乏の時代、復興へ向かう時代を描いており、時代と並走した漫画家だ。だから漫画の主人公の生き方が身につまされてた新聞の読者に受け入れられたのだろう。麻生豊は「時代と庶民」を描く、高い志の表現者だったのだ。