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「名言との対話」3月16日。村山長挙「君(緒方竹虎)は生きて、私どもを導くことの何と大きく、死んで私どもに反省を与えることの何と多いことでしょうか」

村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。

東京都府中市生まれ。京都帝大卒。1919年、朝日新聞初代社主の村山龍平の長女と結婚。婿養子となる。1920年取締役として朝日新聞に入社。1933年会長。1940年社長。主筆で声望の高かった緒方竹虎と不仲であった。1943年、「資本と経営の分離」で緒方を解任する。1944年緒方は退社し政治の世界へ向かった。敗戦後、朝日新聞の戦争責任を明らかにするために経営陣は総退陣した。村山は追放解除後、1951年に社主に復帰し会長になる。1960年、社長に就任。1960年退任した。

今西光男「占領期の朝日新聞と戦争責任」を読んだ。サブタイトルは、「村山長挙と緒方竹虎」である。村山は緒方よりも6歳ほど年下であった。

戦時体制他の新聞は安楽な時代であった。一県一紙体制が確立し、激しい販売競争はなくなり収入は安定した。新聞の内容は大本営発表をなぞるだけになった。戦後はGHQの指令した民主化と戦争責任追及の動きで朝日新聞は混乱を極めたのである。

終戦の詔勅のラジオ放送があった日の午後、朝日新聞東京本社では重要な会議が開かれた。朝日新聞は聖戦の完遂を掲げ、戦争新聞を発行してきた。編集局長の細川隆元は、今まで「一億一心」など最大級の言葉を使って戦争を鼓舞してきたが、がらりと態度を変えなければならない。「まあだんだんに変えていくことにしようじゃないか」、と発言をしている。これに怒って退職したのが「たいまつ」を刊行するむのたけじだ。

その後、村山との暗闘に破れた緒方は政界に出てたちまち存在感を示した。総理になると目された直前の緒方竹虎は突然に死去する。国にとってもその損失は大きかったが、それは朝日新聞にとっても同様だった。

永年にわたり対立した村山は弔辞で「何と強く、そして逝くことの何と疾かったことか」「君が往くところ、堅い氷は解け、熱い火も自ら避けるといった観がありました」と悼んでいる。

朝日新聞は創業以来、「資本と経営」の相克に揺れた新聞社であったことがわかった。この本の著者は朝日新聞の記者として要職をこなした人である。2008年に退職したのだが、その年にこの本を上梓している。この根本問題を解決せず、新聞社という「特権」を抱えたまま双方が弛緩したという見方である。

権力と新聞の関係は、民主社会にとって大きな課題であるが、ネット時代を迎えて、新聞の影響力は減じつつあるが、それでも世論形成に与える影響は依然大きい。新聞社が普通の企業になり始めていることに対する激励と警告の書である。

外部の権力との関係、内部の資本と経営の関係など、メディアには大きな課題が山積している。村山長挙はその渦中にあったが、緒方竹虎という敵については、「君は生きて、私どもを導くことの何と大きく、死んで私どもに半生を与えることの何と多いことでしょうか」と語っている。本音であったろう。組織は人間と人間の関係で動いているのだと改めて思った

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