「名言との対話」6月20日。土方歳三「我、壮年武人と成りて、天下に名をあげん」
土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日〈1835年5月31日〉- 明治2年5月11日〈1869年6月20日〉)は、幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府陸軍奉行並。
東京都日野市出身。19歳の時に天然理心流の近藤周助・勇(養子)の門に入り多摩一帯を巡回指導。29歳、清河八郎下の浪士隊に入り、後に離れ新撰組を名乗る。30歳、池田屋事変で切り込み隊長。34歳、鳥羽伏見の戦いに参加。負傷した近藤に代わり指揮。仙台にいた榎本武楊(1836年生まれ)軍の群議に参加。榎本と蝦夷に出航。函館占領。35歳、一本木で「新撰組土方歳三、これより黒田参謀を斬る」と叫んで戦い、戦死する。
『燃えよ剣』など読んだ書籍や資料館で収集した土方歳三の言葉をあげる。
少年時代「我、壮年武人と成りて、天下に名をあげん」。「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。 喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。死んだと思いこむことだ。そうすれば勝つ」。 「皆、自分の道をゆこう」。「叩かれて音の響きしなずなかな」。「男は、自分が考えている美しさのために殉ずるべきだ」 (そごう美術館で開催中の「没後20年 司馬遼太郎展」にて辞世「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらん」。
同時代の人の土方評。江川太郎左衛門「豪邁不屈、胆気非常の男」。榎本武揚「入室伹清風」。
2007年に「函館記念館 土方・啄木浪漫館」を訪問したことがある。この記念館は株式会社味の豊が設立二十周年記念で建立したものである。2階が啄木、一階が土方歳三関係の資料を展示してあった。「五稜郭に立つ 土方歳三」像は、乗馬用の無知を片手に降り立った姿の像だが、颯爽とした洋装の軍服姿の土方を描いているブロンズ像である。台座103センチ、本体220センチ(1.2倍)。「よしや身は えぞの島辺に朽ちぬとも 魂は東(あずま)の君まもらん」(土方の辞世の歌)。
数奇な運命をたどった美剣士・土方を題材とした文芸作品は多い。司馬遼太郎『燃えよ剣』、北方謙三『黒龍の柩』、池波正太郎『色』、荒俣宏『新帝都物語 維新国生み編』、早乙女貢『新選組斬人剣 小説・土方歳三』、童門冬二『土方歳三 物語と史蹟をたずねて』、星亮一『新選組副長 土方歳三』、岳真也『土方歳三』、三好徹『土方歳三ー戦士の賦、夢枕獏『ヤマンタカ 大菩薩峠血風録』、逢坂剛『アリゾナ無宿』等、京極夏彦『ヒトごろし』、、、。以上のような大家たちの食指が動く人物だったのだ。楽曲、漫画、テレビドラマ、アニメ、ゲーム、舞台などで取り上げられた作品も多い。
2008年以降に、多摩に住むこととなり、土方ゆえんの施設を訪問することが多かった。
日野市の高幡不動金剛寺は、新選組副長の土方歳三の菩提寺。戒名は歳進院殿誠山義豊大居士。新選組の隊員の位牌がある。近藤勇組長は貫天院殿純忠誠義大居士。六番隊長の井上源三郎は誠願元忠居士。一番隊長の沖田総司は賢光院仁誉明道居士。「殉節両雄之碑」。この高幡不動尊は新選組副長・土方歳三の菩提寺であるが、境内に近藤勇と土方歳三の顕彰碑が建っている。二人の来歴、人物、業績などを詳しく述べた漢文が大きな石に刻まれている。「私に碑の撰文を依頼された。私はその立派な志に感銘を受けたので、多摩郡の人、小島為政の作成した二子の伝を基に、その一部始終を順序だててのべたのがこの文である」。小野路村の小島為政が誌した「両雄士伝」をもとに仙台藩の儒者・大槻盤渓が撰し、てん額は会津の松平容保、書は幕府の侍医を務めた松本順の筆である。これらの人物の足跡を辿ってみると、新撰組を巡る人物模様を垣間見ることができる。
旧富澤家住宅。富澤政恕は近藤勇が調布から江戸試衛館道場主近藤周助との養子縁組した際の仲人役だった。後に新選組の近藤勇と土方歳三の「殉節両雄之碑」を高幡不動にに建立している。あの立派な碑を建てた人物だったのだ。
2010年。町田市小野路の「小島資料館」を訪問する。新選組の近藤勇が18歳から30歳まで12年間にわたってよく稽古にきていた名家である。当主の小島為政は天然理心流の近藤周助の高弟であり、近藤勇とは義兄弟になる。小野路の名主であった橋本家には土方歳三がよく遊びにきて好物の沢庵を食していたそうだ。第24代当主の小島政孝さんがいらしたので、名刺を交換し、家と資料館を案内していただいた。新選組関係の資料や記念物以外にも、論語、春秋、大日本史全100冊など6千冊に及ぶ江戸時代の書籍が残っており、近世日本の地方文化の厚みと懐の深さに驚く。この家の当主は代々日記を書き残す風があり、86年間の日記が残っている。この日記を解読した書物も読んでみたが、幕末の様子がよく理解できる内容だった。
土方歳三と井上源三郎は新選組、佐藤彦五郎はその支援者である。それぞれの子孫が自ら資料館にいて、解説をしてくれるという珍しい連携のイベントに参加したことがある。半日かけると新選組の全貌がみえるという企画になっているのが素晴らしい。施設をまわって最後に、オープンしたばかりの日野市立新選組のふるさと歴史館でこの新選組ツアーが終了する。育った実家にある土方歳三資料館を興味深くみた。子孫の陽子さんから、その娘の愛さんが書いた「子孫が語る土方歳三」(新人物往来社)などの書籍を購入する。 榎本武揚の書「入室伹清風」があった。「歳三という男は、軍議などの際、部屋に入ってくると清らかな風がなびくようなそんなさわやかな人物であった」という意味の書である。
土方歳三は少年時代に立てた志のとおりの生涯を送ったのだが、下僕であった忠介が「徳川全盛の時に在らしめば、必ず数十万石の大名となるべきに、惜しむらくは幕末に生まれ、かかる名将もその知勇を発揮する能わず」と書いている。しかし、その生涯は最後に詠んだ「叩かれて音の響きし薺(なずな)かな」のとおり、後世に長く名が響いているのである。
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