「名言との対話」7月19日。鯨井恒太郎「研究の自由と各人の独創性を尊ぶ」
鯨井恒太郎(くじらい つねたろう 1884年7月19日〜1935年7月22日)は、日本の電気工学者。
東京京橋生まれ。1907年東京帝大工科大学電子工学科を卒業。逓信省電気試験所に入る。1908年、帝大助教授、1918年教授。
無線通信工学に取り組み、1911年に無線電話機、1915年に周波数変換装置を発明した。整流器、電気集塵機、白熱電球利用の光通信機など多くの発明と特許がある。
1928年、日本大学工学部電気工学科設置に尽力。1929年、東京工大創立時に電気工学科主任教授を兼務。1916年、学士院賞を受賞。
「鯨井」という苗字は珍しい。東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国高麗郡鯨井村がルーツ。 戦国時代に記録のある地名で、「久志羅井」とも表記した。
「研究」という仕事で大事をなすには、師匠、友人、弟子が揃うことが必要だ。鯨井の場合を調べてみよう。
師匠:帝大で鳳秀太郎(1872年2月9日 - 1931年9月16日)に師事した。電気研究所初代所長で「鳳ーテブナン定理」で有名な学者である。実の妹が歌人の与謝野晶子(1878年12月7日 - 1942年5月29日)。晶子はもともとは鳳晶子だった。
友人:鳥潟右一(1883年 4月25日- 1923年6月6日)との電気試験所での共同研究「無線通信に使用する電気振動間隙に関する研究」で鯨井は学士院賞を受賞した。それは完全に通信の秘密が保たれる技術の開発だった。鳥潟はTKY式無線電話機を発明、世界で初めて無線に音声を載せた人である。2017年に秋田県大館を旅行したとき、鳥潟会館を訪問する機会があった。鳥潟は41歳で夭折。
弟子:門下生に仁科芳雄(1890年12月6日 - 1951年1月10)がいる。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげ、日本の現代物理学の祖と呼ばれた。また、八木秀次(1886年1月28日 - 1976年1月19日)には無線分野に進むよう示唆し、八木は八木アンテナを開発した。八木は大阪帝大理学部長、東京工業大学学長 、内閣技術院総裁 、大阪大学学長 をつとめた大御所になった。鯨井の回想では、八木秀次の「平凡な動物だけを集めても誰も見に行かない。理学部も、動物園のような事が望ましい。一芸一能に長じた人達の集団であってほしい。世間の噂を気にしないで、自分の専門に精進すべきだ」との発言に感激している。
理化学研究所の危機に直面して選ばれた第3代所長の大河内正敏の改革は際立っていたことを思いだした。ピラミッド構造を粉砕し、主任研究員制度を導入。大学教授との兼任も認めた。学問の垣根を取り払う。女性の研究員を増員。組織改革のテーマは「自由と平等」だった。そこで得たエネルギーを技術移転による製品開発に向け、一大コンツエルンを築くいた。
鯨井恒太郎自身も知的生産の巨大技術ともいうべき大学の研究には「自由と独創」が重要だと認識していた。そういう思いで、日大や東工大の研究環境を整えたのであろう。一流の学者たちは、独創の鬼であった。その源は「研究の自由」だったのだ。