「名言との対話」8月21日。川上瀧弥「マリモ」
川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日)は、日本の植物学者。
山形県酒田市出身。植物採集に興味を持つ少年で、1891年に札幌農学校予科に入学。故郷の庄内、阿寒湖、択捉、利尻などを踏破調査し、膨大な植物標本を作成、多くの学術論文を執筆。阿寒湖の緑藻を「マリモ」と命名した。1900年に第18期生として札幌農学校を卒業。
北海道庁、熊本農業学校を経て、1904年から台湾総督府技師となった。これは宮部金吾が台湾総督府に勤務していた農学校同期生で親友の新渡戸稲造に依頼した人事だった。川上は台湾各地、澎湖諸島などの離島の植物調査に従事し、40数種類の植物に自身の名を冠した命名をした。この間、農学校の恩師・宮部金吾の教えを請い、牧野富太郎らも学名にカワカミをつけている。牧野は、川上が利尻山で採取した標本をミヤマオグルマと命名している。
1908年、台湾総督府民政部殖産局附属博物館「兒玉総督及び後藤民生局長官記念館」(現在は国立台湾博物館)の初代館長に就任した。その開設準備あたり、1915年8月20日に無事開館した。ところがその激務がたたり、翌日に44歳で死去している。
私は、2014年6月に台湾に出張している。その時のブログには以下の記述がある。
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ガイドの林さんは英語でタイムやニューズウイークを読み、日本語で文芸春秋や中央公論を読む人だった。
台北郊外の芝山公園。六氏先生の墓。18歳から39歳までの教育者は危険を承知しながら土匪の攻撃を避けずに死亡。芝山厳事件。公園で会った80代の老人は涙を浮かべて偉い人たちだと力説。教育のために命を犠牲にした。何度も大和魂という言葉を口にした。70年前には日本人になろうとした。教育の力は大きいと力説。国民党時代はこういう経緯を知っている人たちが墓を隠していた。1898年以降、2月1日を六氏例祭日として偲んでいる。
而農閲覧室。伊澤修二。台湾教育的創始者という解説。台湾総督府首任学務部長。日本語教育と日本人同化に功績。立派な風貌。台湾での教育に絶大な実績をあげた伊沢修二(1851-1917年)という人物の伝記『伊沢修二 』(人物叢書)を読み終わった。伊沢は明治初年の「師範教育、音楽教育、体操教育、聾唖教育、植民教育、国家教育、吃音矯正等」、各種教育事業のすべての単独で創立したか、深く関係しているという、独創的な教育実践家であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。
明石元二郎総督の墓もあるとのこと。現地人が守った。現在は非公開。
水道水博物館。イギリス人のブルトン教授。マラリヤなどの伝染病は水が原因。水源を探り電気を用いてきれいな水を初めてつくった。ブルトン先生はマラリヤで日本で死亡。弟子の浜野先生が継いだ。森山松之助。1869-1949。80歳。水道施設を設計、建設。1908年完工。この人は台湾総督府など主な施設をほとんど手がけた人。東京帝大工科大学造家学科。1907年には東京勧業博覧会会館も設計。1907年ー1921年在台湾。この博物館の建物は台湾初の鉄筋コンクリート製。アワビの模様の紋章。
日本は今日の台湾にいたるインフラを造った。ダム、水、病院、教育、、、。
ニニ八和平公園。陳水扁の書。国民党が2万人を虐殺。
国立台湾博物館。岡本要八郎。1876-1960。台湾鉱物研究の先駆者。九州大学。博物館の鉱物室創立に関与。最重要コレクション。北投石の発見。「児玉源太郎及後藤新平紀年館」からこの博物館は始まった。児玉が亡くなり、後藤が満鉄総裁に転任する送別会で記念館をつくることが決まった。100周年にあたって2人の像を展示。
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このブログの中で、国立台湾博物館の記述の中に「川上瀧弥。1908ー1915。台湾植物のパイオニア。初代館長。開館翌日に殉職」と記していたことを今回発見した。川上瀧弥は、札幌農学校の恩師・宮部金吾、その親友・新渡戸稲造、児玉源太郎総督、後藤新平らと、日本初の植民地・台湾の近代化に邁進したのだ。その象徴が国立台湾博物館だ。その博物館には「館長の発見」として、阿寒湖のマリモが展示されている。川上瀧弥を象徴する言葉は、「マリモ」だろう。
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