「名言との対話」2月7日。赤松良子「猛烈に勉強しなさい。そして、猛烈に働きなさい。チャンスは必ずやってくる」
赤松 良子(あかまつ りょうこ、1929年8月24日 -2024年2月7日 )は、日本の労働官僚、外交官、政治家。享年94。
大阪府生まれ。津田塾専門学校英文学科卒業。1953年東京大学法学部政治学科(丸山真男ゼミ)卒業し労働者に入省。1979年国連日本政府代表部公使に就任し女子差別撤廃条約に賛成の投票を行う。1982年労働省婦人少年局長に就任、男女雇用機会均等法を立案。1984年労働省婦人局初代局長に就任。1986年駐ウルグアイ大使。
1989年女性職業財団(現21世紀職業財団)会長。国際女性の地位協会会長、文京女子大学教授などを務める。1993年~1994年細川、羽田両内閣で文部大臣に就任。1997年国際女性の地位協会10周年を記念して「赤松良子賞」が設立される。1999年政治の分野への進出をめざす女性を支援するネットワーク、WIN WIN設立し代表。2003年扇千景とともに女性として初の旭日大綬章を受章した。2008年より日本ユニセフ協会会長。2019年東京都名誉都民。
以上が表の経歴である。私生活はどうだったか。
1953年に花見忠(後に上智大学教授)と結婚し、35年後に還暦を前に協議離婚している。1966年に、青杉優子のペンネームで住友セメント事件に関する論文を発表している。青杉優子というペンネームは愉快だ。赤ではなく青、松ではなく杉、良ではなく優というのはユーモアがある。
入省当時の婦人少年局には、藤田たき局長(津田塾教授)を始め、田中寿美子課長(後、参議院議員)、高橋展子(デンマーク大使)、森山真弓(環境庁長官、内閣官房長官、文相、法相)らが所属していた。また2009年に逮捕された村木厚子・厚生労働省雇用均等・児童家庭局長について、「無実の村木厚子さんの解放を求めます」との声明を発表している。無実であった村木は後に次官になっている。こういった女性官僚の系譜がある。彼女らは、猛烈に学び、猛烈に働いたのであろう。
赤松良子の「猛烈に勉強しなさい。そして、猛烈に働きなさい。チャンスは必ずやってくる」は、若い時代には、出産・育児、男性に比べて昇進の遅れがあり、雌伏の時代を過ごした時の心境だろう。赤松はチャンスをつかみ大輪の花を咲かせたが、その姿に後輩女性たちは勇気をもらったことだろう。女性活躍の流れの中で大きな影響を与えた人だ。