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「名言との対話」9月21日。高川格「流水不争先」(流水は先を争わず)

二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1915年9月21日 - 1986年11月26日)本名:高川格(たかがわ かく)は、日本の囲碁棋士。

和歌山田辺出身。囲碁の本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数獲得した昭和を代表する名棋士の一人。平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風だった。生涯成績は1169局、660勝504敗5持碁(勝率5割6分7厘)。 71歳で永眠。

1952年から本因坊9連覇は34歳から43歳までだった。10期目には坂田栄夫九段に敗れている。その後も数回挑戦しているが敗退している。

「秀格烏鷺うろばなし」というエッセイで、影響を受けた本因坊秀栄について、「秀栄名人の碁は石運びに無理がなく、いざとなれば相手をねじ伏せる力を内に秘めながら、明るい大局観でサラサラと勝ってしまう。それはまるで水が高きから低きに流れ落ちる自然さに満ちている」と述べている。秀格の号も、秀栄を意識して付けたものだ。それが信条である「流水不争先」の元となった。

揮毫によく用いた「流水不争先」(流水は先を争わず) は、川の水は、急がず、争わず、ひたすら大海を目指す、という意味である。そういう棋風を意識していた。

「おめえのような碁をクイ打ち碁と言うんだ。打てば打つ程下がる」という自作の創作落語「手段」のオチがあるから、愉快な面もあったようだ。

高川格は囲碁棋士と年齢については、もともと50歳限界説をとっていた。ところが、1968年に53歳で林海峰に挑戦して名人位に就いた時は不死鳥と呼ばれ、呉清源からは「二枚腰の林さんに勝ったのだから、高川さんは三枚腰だ」などと言われている。 自ら設けた限界年齢を超えた快挙を成し遂げてから、囲碁観、人生観が変わったようだ。

60代では「秀策さんが病没したのが37才、秀栄さんが54才で他界している。碁聖とか名人中の名人と言われた人の生涯がこの若さである。それに引き替え、すでに還暦を過ぎて対局を続け、子供か孫のような年齢の小僧っ子共にボロボロ負かされているのが現在の僕の姿である。よわい還暦を過ぎて尚未練がましく碁盤にしがみついている僕には僕なりの言い分がある」。

その言い分とは何か。「囲碁50年眼界説を持っている僕は、その限界を過ぎてからの僕の碁も見極めたいという気持ちも捨てがたいのだ。そして、年齢的にも若者・壮年・老年の作があっても良い。僕は今老年の碁を追加しているのである」。

年齢に応じた囲碁の世界があることを発見し、それを切り拓こうという意欲が感じられる。年齢を加えるということは、新しい世界を知ることである。そういう自分がどういう碁を打つかに腐心している姿がみえる。勝負事、芸術、スポーツ、学問など、同じような心境を吐露する人々をみかけることがある。「流水は先を争わず」というように、自然にまかせて、自分の領域を楽しむという心境だろうか。

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