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「名言との対話」11月14日。清水鳩子「理屈よりもハート、スマートさよりも熱意、その視点が現代の消費者運動にこそ必要」

清水鳩子(1924年10月5日〜2020年11月14日)は、消費者運動家。享年96。

福井県生まれ。主婦連合会創設に参画し、戦後の消費者運動の一翼を担った。主婦連合会の事務局長、副会長、会長を務めた後に、主婦会館の館長として活躍する。

「清水鳩子さんに聞く 日本の消費者運動史」(日本女子大の細川幸一)という無料配布のPDFを見つけた。以下、そのインタビューを参考に、清水鳩子の軌跡を追う。

6歳の時、父親が病死。生計をたてなければならない。母親は保母学校に通い、保母の資格をとり、鳩子の叔母の奥むめお(1895‐1997)が運営していた婦人セツルメントで保母の仕事を始める。鳩子はセツルの施設で育った。主婦連を創設し初代会長に就いた奥むめおの、めいである。

大東亜戦争を経験した清水は「二度と再び戦争をやってはいけない。家族が死ぬ。子どもを女性一人で育てる苦労」があるとし、保母をやめたあとの社会事業大学の学生時代には、奥むめお参議院議員選挙応援に全国を駆け回っている。その思いを主婦連(主婦連合会)の運動にぶつけていく。不良マッチ追放運動から始まった主婦連のシンボルは「しゃもじとエプロン」だ。それは「豊かな食料をよそう主婦の願い」「たたかいとる意の、めし取る心」を示しているとのことだ。

「明治時代の女性は発想が自由です。(女は選挙演説を聞きにも行けない時代でしたので)奥先生はお兄さんのマントと帽子をかぶって演説を聞きに行って、女だとわかってしまってお巡りさんに引っ張り出されたと言っていました」。奧先生もそうだし、うちの母もそうですが、明治の教育は考え方が自由です」。「お国のために何でも言うとおり一生懸命にやるのが「いい子」で、それが当たり前だと思ってずっと教育を受けてきているから、今でも明治の人がうらやましいです」。「明治時代に生まれたかった」といっていたとの証言もある。戦争へ向かう昭和時代は女性の地位と意識は後退していたというのである。このことは初めて知った。

「私は専門家ではない、消費者の声の代弁者なのだから」とみんなの意見を聞くことを大事にしていた清水は米価審議会の委員の時、アメリカに視察に行く機会があった。行きたいところはどこでもいいというので、消費者関連施設を見たい、米国の農家を見たい、ホテルではなくて農家に⺠泊したいと要望を出した。アメリカの農村女性の生活ぶりと、アメリカの農業実態を具体的に知りたいと強く要請したら、希望は100%叶えられた。この経験はアメリカという国を見直すことになった。

現在の四谷の主婦会館の土地は、平凡社下中弥三郎社長から安く買ったものだ。募金をしたところ、目標額600万円だったが、建設資金1億2千万円が集まった。建て替えのときは清水が会⻑のときであったのだが、企業の人が寄付をくれた。当時から応援してくれる人が多くいたのである。

このインタビューで重要なポイントは二つあった。

「組織の存続を考えるとき、年齢的に若返りさえすれば良いというものではありません。主婦連の会⻑たるもの、主婦連の生い立ちを十分に理解し、創設者の思いを引き継ぎつつ、新たな時代に備えて理論武装しなくてはならない。ただ反対と主張したってだめ。また政治(政党)との付き合い方も熟知していなければいけない。ここの政党の機関誌に主婦連の写真や意見が掲載されたら、組織内外・社会へどのような影響があるのかということまで考えないと」。組織の大小にかかわらず、歴史感覚と地理感覚というトップが持つべき心得を説いている。

「私たちは、いま、政治に何を望むか。議論するべきなのです。原点に戻る。「台所の声を政治に」 口先で論理的に批判することは簡単ですが、データをもとに相手(行政や政治家)を説得することが大切。 相手を動かすのは「数字」「データ」。最近の消費者運動に欠けているところです。自分たちの足でデータを集める、これが大事。「下手な評論家」になってはいけない。「大勢の消費者が言っている」これだけではだめ。 貧しい人が苦しんでいるなら、その貧しい人のデータをもってかなくてはだめ」。感情的、総花的、評論家的な批判ではなく、女性が苦手な数字、データを駆使せよという助言である。これはいつの時代にも通用する科学的な考え方だ。主婦連創成から「何もないところから」想像してきた、それが消費者運動の原点であった。

歴史感覚、地理認識、科学的精神を強調した上で、「理屈よりもハート、スマートさよりも熱意、その視点が現代の消費者運動にこそ必要」というメッセ―ジを後輩たちに残した清水鳩子は、コロナ禍の最中である2020年11月14日に96歳で死去した。


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