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「名言との対話」12月24日。高山樗牛「己の立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉あらむ」

高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代日本文芸評論家思想家東京大学講師文学博士明治30年代の言論を先導した。31歳で夭折。

鶴岡出身。本名は林次郎。一高不合格、二高仮入学と、二度にわたって志望校に不合格。優等生を続けてきた樗牛に及ぼした影響は小さくなかったろう。号とした樗牛は「荘子」に因んだもの。東京帝大文科大学哲学科在学中に、読売新聞の懸賞小説に応募し『滝口入道』が入選する。また『帝国文学』や『太陽』などに文芸評論を発表した。

大学卒業後には仙台の第二高等学校の教授に就任したが、翌年には校長排斥運動で辞任し、博文館の『太陽』編集主幹となり、日本主義の評論を書く。

谷崎潤一郎は「何一つとして独創性の認められるものはないではないか」「案外俗才があり、世渡りが巧かった」と厳しい。また鴎外とは「美学」をめぐる論争を行い、逍遥らとも論争するなど、短い生涯のほとんどが論争の連続だった。

1900年には文部省から美学研究のため海外留学を命じられ、帰国後は京都帝大の教授が内定していた。しかし洋行の送別会後に喀血、療養生活に入り、洋行を辞退する。1902年には文学博士。日本主義、ロマン主義ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷甚だしいのだが、明治思想史を駆け抜けたともいえる。

4歳年上の夏目漱石が「高山の林公」呼ばわりして、ライバル視した。「樗牛なにものぞ。、、只覇気を弄して一時の名を貪るのみ。後世もし樗牛の名を記憶するものあらば仙台人の一部ならん」と門下の小宮豊隆宛の手紙に書いている。樗牛に押されていた門下生を鼓舞したのだろう。後に漱石門下の阿部次郎は、地方文化への貢献が大である人に贈られる高山樗牛賞をもらっている。

山形県鶴岡市大宝館に高山樗牛記念室を訪ねたことがある。鶴岡出身者では清河八郎大川周明横綱柏戸石原莞爾藤沢周平丸谷才一渡部昇一佐藤賢一などの名前が思い浮かぶ。鶴岡藩の伝統だろう。

狷介でなかなかの難物だった高山樗牛だが、冒頭の言葉には惹かれる。己の立っている場所しか掘ることはできない。そこを深く、深く掘り進める。地下水に到達すると、その水はあらゆる分野につながっていることを発見する。自分の本拠地では全体重をかけることができる。他の場所ではそれができない。そのことがわかるか、わからないかが人生の勝負をわけるのである。

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