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「名言との対話」8月5日。壺井栄「桃栗3年 柿8年 柚子の大馬鹿18年」

壺井 栄(つぼい さかえ、旧姓:岩井、女性、1899年明治32年)8月5日 - 1967年昭和42年)6月23日)は小説家詩人。主に一般向小説および児童文学童話)を主領域に活躍した作家で、戦後反戦文学の名作として後に映画化された『二十四の瞳』の作者として知られる。

壺井栄は醤油樽職人の6番目の子供であった。級長になるなど成績は良かったが一家が破産。15歳で坂出郵便局につとめる。26歳で上京、同郷の壺井繁治と結婚し、世田谷に住んだ。この時近所に林芙美子平林たい子夫妻がいた。夫はプロレタリア運動に参加する。31歳、宮本百合子、佐田稲子と知り合う。38歳で、処女作「大根の葉」を発表する。42歳、「暦」で新潮社文芸賞を受ける。以降活発な執筆を展開する。53歳のときに書いた「二十四の瞳」が映画化され栄は国民的な存在になる。57歳、壺井栄作品集25巻。67歳、内海町名誉町民、そして死去。壺井栄は、小説、童話、随筆等、生涯で1,400編の作品を残した。1992年に郷土の小豆島の映画村に壺井栄文学館が開館した。

2015年に、 小豆島で大学の合宿をした際に、小豆島映画村を訪問した。映画村では映画館があり無料で「二十四の瞳」を上映していた。「二十四の瞳」は2度映画化されている。最初は高峰秀子主演、2回目は1987年の田中裕子主演の作品である。この映画は子供の頃見ているが、戦争反対の作品だったことに驚いた。ひらいたひらいた、7つの子、村の鍛冶屋、荒城の月、仰げば尊し、などの歌が聞こえている。涙なしには見ることができない名作であった。「このひとみを、どうしてにごしてよいものか」、これが「二十四のひとみ」の原点だった。

壺井栄記念館には夫であった、壺井繁治という詩人の紹介がある。「石は 億万年を 黙って暮らし続けた。その間に 空は 晴れたり曇ったりした」
もう一人、黒島伝治という小説家の紹介もあった。「一山こゆればまた一山、一嶺こゆればまた一嶺 限りなき道ぞ楽しき」「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」この言葉は黒島の文学碑に刻まれている。

壁にメッセージを寄せた著名人の言葉が飾ってあった。「平和主義の結晶のような作品」。「日本のサウンドオブミュージック」。「反戦映画」。「今の時代、この映画を観れば大事なことがわかる」。「ああ、どれだけの涙を日本人はあなたの映画に涙し、悲しみを癒されたことだろう」。「人をつきつめることのない優しさ、曖昧さ、非合理、いたわり、弱さ、涙、嘆き、忍耐、諦めを肯定する力、これは日本人の財産である」。

映画村では、「二十四の瞳」の監督である「巨匠木下恵介展」をやっていた。
「私はこれまで慎ましく生きる庶民の情感を映像を通して描いてきた」「理屈でいつも忘れちゃうけど、泣いて映画を見た心はいつまでも印象に残るんだと思う。これが映画監督としての社会における義務だと思う」

「桃栗3年 柿八年  柚の大馬鹿18年」、これが遅咲きの壺井栄座右の銘である。自身は柚であると認識していたのだ。亡くなる直前の最後の言葉は「みんな仲良く」だった。



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