「名言との対話」3月25日。島尾ミホ「征きませば加奈が形見の短剣でわが命綱絶たんとぞ念ふ」
島尾 ミホ(しまお ミホ、1919年10月24日 - 2007年3月25日)は、日本の作家。
鹿児島県の奄美群島・加計呂麻島出身。東京の日出高等女学校を卒業。加計呂麻島の国民学校に代用教員として在職。太平洋戦争中、加計呂麻島に九州帝大を繰り上げ卒業し、駐屯していた特攻隊隊長の島尾敏雄と出会う。戦後結婚した後には、作家となった島尾敏雄の代表作『死の棘』に登場する「妻」のモデルとなった。
自身の小説では、『海辺の生と死』で、田村俊子賞、南日本文学賞を受賞したほか、『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。『ヤポニシアの海辺から対談』(石牟礼道子との共著)、『島尾敏雄事典』(志村有弘共編)などがある。
生誕100年となる2019年には短編集『祭り裏』の復刊や記念イベントの開催、梯久美子の評伝『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)が文庫化されるなど、注目を集めた。最近では日経新聞で梯久美子が連載をしているのをみかけた。
夫・島尾敏雄の記念館が郷里の福島県相馬郡小高町にある。埴谷島尾記念文学資料館だ。同郷の埴谷雄高は「僕一人だけではいやだけど、島尾君と一緒ならいい」と承諾してできた二人の資料館だ。未完の大長編小説『死霊』を書き続けた埴谷雄高(1909-1997年)と、壮絶な夫婦愛を描いて私小説の極北と言われる小説『死の棘』を残した島尾敏雄の資料館だ。島尾は「日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い」と山本周五郎がいうほどの作家だった。島尾敏夫は一口に日本と呼ぶのではなく、地域ごとの多様で豊饒さを、「ヤポネシア」という造語で呼ぼうとした。日本列島を「島々の連なり」と考えるという視点だった。谷川健一、吉本隆明などがこの概念を好んで使っている。
戸内寂聴は「島尾敏雄さんはハンサムだった」と書いている。敏雄の浮気によって、妻の美穂は嫉妬心によって心の病におかされる。家庭は修羅場と化した。その壮絶な体験を書き綴ったのが、敏雄の代表作『死の棘』である。
島尾ミホのエッセイ集『愛の棘』(幻戯書房)を読んだ。『死の棘』への応答歌である。特攻隊長の島尾中尉との遭遇と逢引きと決死の脱出が、この人の人生のクライマックスだ。
特攻として島尾の出撃が決まった出撃の前夜に詠んだ歌。加那とは恋人である自分のこと。出撃命令はでなかった。翌日は8月15日だったのだ。
征きませば加奈が形見の短剣でわが命綱絶たんとぞ念ふ
大君の任のまにまに征き給ふ加那ゆるしませ死出の御供
はしきやし加那が手触りし短剣と真夜をさめゐるわれ触れ惜しむ
父と家を捨てて島を脱出したときの歌。
古も今もあらざり人恋ふる深きお想ひは代々に変わらじ
恋故に十七代続く家系捨て独り子のわれ嵐の海洋へ
親を捨て古き家系も捨て去りて御跡慕いて和多都美の国へ
海原を大鏡へと見立てつつ加那が悌偲び奉らむ
琉球南山王の血筋引く古き我家も此処に絶えなむ
瀬戸内寂聴が「島尾敏雄さんはハンサムだった」と書いているように、2人の写真をみると、美男美女のカップルである。夫の代表作『死の棘』にならって編んだエッセイ集『愛の棘』を読むと、若き日の恋が島尾ミホを生涯にわたってとらえていることがわかり、感動を覚える。それをミホは小説やエッセイにしたが、短歌というものの威力を改めて感じてしまった。