![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56098201/rectangle_large_type_2_7ad9eb60accb1d61cc32788bc4c56b97.jpeg?width=1200)
「名言との対話」7月4日。八木一夫「工芸とも美術ともつかぬ『鵺』と知った」
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。
京都市生れ。父は陶芸家八木一艸。京都市立美術学校卒業。商工省陶磁器試験所伝習生となる。1946年青年作陶家集団設立に参加。走泥社を結成し前衛陶芸界の指導的役割を担った。用途や機能を考慮しない純粋な立体造形を試み、海外でも高い評価を得た。代表作に「ザムザ氏の散歩」(1954年)がある。1971年より京都市立大学陶芸科教授をつとめた。札幌オリンピックの入賞メダルのデザインを担当した。
八木一夫は器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。 オブジェは純粋造形の概念で、絵を物としてとしてみる考え方である。具象から自立させることで刺激や幻想を引き起こすことができるという概念だ。八木はそういった抽象性の強いやきものを「オブジェ焼」と名付けた。茶碗も用途を限定しなければ、一種のオブジェになる。
自己表現の方法としてのオブジェ焼は抽象作陶とも呼ぶべきか。抽象といえば、父が脳溢血で倒れたときに「いづこの部分が夫のことばを奪ひしや抽象画のごとき脳の影像」と詠んだ母の短歌を思い出す。最近107歳で亡くなった篠田桃紅は、「抽象画は想像する芸術。具象は見てわかる、理解するもの。抽象は理解するものではなく感じるもの。想像力を誘いだす」と言っている。
江戸期の文人でもあった青木木米にならって識字陶工と名乗っている。海上雅臣『
』(文化出版局)で八木一夫の言葉を読むと、相当な教養人であった。この本では、ロクロは陶車と書き、テラコッタは土器、マチエールを質感と表現していて参考になった。
八木は黒陶の傑作をいくつもつくった。西洋に「やきもの」にあたる言葉はない。土器、陶器(有色粘土を素材とした焼きもの)、磁器(白色粘土にガラス質の長石、珪石 を加えたもの)などの全体を日本では「やきもの」と呼んでいる。黒陶は、成形した土の肌を磨き、焼成時に煤煙をいぶし込む方法である。偶然の模様の出現ではなく、作意を重んじることができる。
「構想設計」という自画像作品がある。設計を構想することが自分のテーマだという題名である。八木は作品の意図の主張を込めようとして、意識して作品に題名をつけている。抽象絵画では単なる番号で呼ぶことが多いが、題名をつけることで、相手の想像力にすべて任せるのではなく限定される。メッセージ性が強くなり、それを手掛かりに見る方も想像の羽根を安心してのばせることができるのだ。
やきもの世界で八木は、形象から自由になった世界を発明した。そのことで自己表現、さらにいえば自己探求に徹することができた。やきものの制作は完了することはない。一つの作品は別の問いを生むから続けざるをえない。しかし作品自体は未完成なのではない。その時点での一つの到達だから完成しているといえるのだ。扱う素材と表現の形式は違っても、自己を探求する表現の世界では、作品をひとつひとつ完成させながら、自己に深く迫っていくことになるのだ。
八木以前は、バーナード・リーチ、富本憲吉、岸田劉生、板谷波山、河井寛次郎、浜田庄司、加藤藤九郎、柳宗悦らがいる。その世界で八木は、「八木一夫以後」という表現があるように、やきものの世界で革命家となった。しかし60歳という若さで夭折する。その志は「八木一夫」以後の加守田章二、熊倉順吉、寺尾恍示、中村錦平、蟹江良二、佐藤敏、辻清明、三輪龍作などがあらわれることで続いていく。彼らのつくるものは、自己発見、自己探求、自己表出を超えて、自己の情念の噴出にまで行き着いているようだ。そしてこの道はさらに続いていく。
八木は自分を「工芸とも美術ともつかぬ「鵺」と知った」としている。頭は猿、体は狸で尾は蛇、そして手足は虎といういかにも異質な形をした想像上の妖怪の名前である。鵺は「平家物語」に登場し、源頼政によって退治される。「世阿弥」作の謡曲「鵺」で「鵺」の名を冠した怪物の亡霊として登場する。八木一夫は工芸と美術の間を自由に行き来する不思議な怪物として革命を遂行したのである。