「名言との対話」12月27日。浅沼稲次郎「選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――」
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日]- 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。
東京都三宅島出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校をそれぞれ複数回受験し、いずれも不合格になった。早稲田大学予科に入学。雄弁会、相撲部(副主将)、漕艇部。社会運動に入り、右翼から暴行を受けたり、監獄に入れられたりする。1923年政治経済学部を卒業し社会主義運動に身を投じる。
農民労働党、労働農民党、日本労働党、社会大衆党の参加する。国家社会主義路線に賛成し、戦争を支持する。1936年、衆議院議員選挙初当選。
1945年、日本社会党ができ、その組織部長となる。1947年、書記長。1951年のサンフランシスコ平和条約では講和条約賛成・安保条約反対の立場をとった。1955年の社会党再統一でも書記長となった。1960年、鈴木茂三郎の後を受けて委員長に就任する。安保反対闘争を戦い、岸内閣を退陣に追い込む。
1960年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民・社会・民主の3党首演説会で、浅沼は演説中に17歳の右翼少年・山口二矢に左わき腹、左胸を深く刺されて、その日のうちに非業の死を遂げる。享年61。
大隈重信にほめられた体格であり、人が驚く大食漢であった。恐妻家、愛犬家、としても有名。この人は綽名が多いのが特徴である。「人間機関車」「まあまあ居士」「万年書記長」。血の気が多く、エネルギーにあふれた、しかしょ粘り強い、魅力的な人物であったことがわかる。故郷の三宅島の公園と社民党本部に銅像が建っている。
浅沼稲次郎は社会党党首時代に、演説会で刺されて亡くなった。この情景は、当時小学生だった私もテレビの映像で目撃しており、この光景と世間の騒ぎを覚えている。
演説途中でテロにあう様子が残されている。またその時の映像もみてみた。
「、、、諸君、議会政治で重大なことは警職法、新安保条約の重大な案件が選挙のさいには国民の信を問わない、そのときには何も主張しないで、一たび選挙で多数をとったら、政権についたら、選挙のとき公約しないことを平気で多数の力で押しつけようというところに、大きな課題があるといわなければならぬと思うのであります。(拍手。場内騒然)
〈司会〉会場が大へんそうぞうしゅうございまして、お話がききたい方の耳に届かないと思います。だいたいこの会場の最前列には、新聞社の関係の方が取材においでになっているわけですけれども、これは取材の余地がないほどそうぞうしゅうございますので、このさい静粛にお話をうかがいまして、このあと進めたいと思います。(拍手)それではお待たせいたしました、どうぞ――
(浅沼委員長ふたたび)「選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――」(このとき暴漢がかけ上がり、浅沼委員長を刺す。場内騒然)。この後、山口二矢に刺されたのである。
〈以下は浅沼委員長がつづけて語るべくして語らなかった、この演説の最終部分にあたるものの原案である〉
――「どんな無茶なことでも国会の多数にものをいわせて押し通すというのでは、いったい何のために選挙をやり、何のために国会があるのか、わかりません。これでは多数派の政党がみずから議会政治の墓穴を掘ることになります。」
10月18日には衆院本会議で追悼演説会が催された。池田勇人首相は、空席を指し、浅沼を「好敵手」と評価し、テロを許さないと、心に残る名演説を行い、その死を悼んだ。政治家がテロで亡くなったときに、反対党のライバルが弔辞を読むという慣例があり、安倍首相の国葬の野田元首相の追悼演説もその慣例に沿っているのである。
「選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――」。浅沼稲次郎の最後の演説と、演説草稿をよむと、今も政権与党の姿勢は変わっていないと感じてしまう。国会の機能が低下し、与党がみずから議会政治の墓穴を掘ることになる、という浅沼の主張は、今なお生きている。