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「名言との対話」12月8日。金澤弘和「おこらない、いばらない、おそれない」
金澤 弘和(かなざわ ひろかず、1931年(昭和6年)5月3日 - 2019年(令和元年)12月8日)は、空手家。享年88。
岩手県生まれ。拓殖大学空手部在籍時より松濤館流空手の開祖である船越義珍、日本空手協会設立者の中山正敏らに空手道を学んだ。卒業後、日本空手協会の第一期研修生となる。1957年、1958年の日本空手協会主催の全国大会で2年連続優勝を果たす。海外へ空手を普及する先陣を切って、1960年からハワイを皮切りにイギリス、ドイツなど世界各地で空手を指導し、空手を世界に普及した基盤を確立した。「調和の哲学」に基づいた空手で、世界100ヵ国以上で指導し、「世界のカナザワ」「センセイ・カナザワ」の異名をもらう。
1977年、日本空手協会から除名され、師と仰いだ中山正敏から別れることになった。このとき、「空手の原点に帰ろう。「空」は可能性だ。これからは自分を修めるための空手に重きを置こう」と考え、1978年、國際松濤館空手道連盟を設立した。映像で「間と呼吸」を大事にする「型と組手」の演武をする映像をみたが、見事なものだった。
70歳で書いた自叙伝『我が空手人生』(日本武道館)を読んだ。人間には「天命」があるという空手という一本道を歩んだ男の自叙伝だ。
まず最初に感じたことは、人格形成に故郷の父母の教えが強い影響を与えていることだ。父の教えは「どの分野でもよいから一所懸命やれ、曲がったことはするな」「特性を生かしなさい」「強い者は、自分から決して喧嘩をしない」。そして母の教えは「人様の気がつかない所、人様の嫌がる所を進んで掃除しなさい」「金と女で人格が変わるようでは、本物の男ではない」「弱い者とは、自分より弱い者をいじめる者」を記述している。また、お世話になった指導者や空手を通じて得た異分野の偉い人たちの言動からも学んでいる。素直に人から学ぶという姿勢が金澤弘和の特徴だと思う。
私の父が拓殖大学の卒業生であり、「教育大前」というバス停を「拓大前」と変えさせようとしたえぴーどなどは父から聞いいて、父を思い出した。
金澤弘和は70歳、80歳になっても続けられる空手、長く続けられる空手を目指しており、「30代には50代のことを想定した努力を重ね、50代には70代を想定した努力を重ねた。私が理想とする空手道は、弱い人間や女性が習得でき、老人になればなるほど強くなっていけるものである」という。
「60代に入ると、気力の年代に入る。気功法を中心とした練習に切り替えていく。筋力、内臓力は加齢とともに落ちるが、気力、精神力は加齢とともに深まっていく可能性がある」。
そして古希を迎えたときには、「知れば知るほど、登れば登るほど山が高くなり、尽くせば尽くすほど、極めれば極めるほど、限りなく深く、終りのないのが我が空手人生である」と最後に語っている。87歳、亡くなる1年前の「花は桜木 人は武士」と色紙に書いている写真もある。
この人は「空手一筋」ではない。柔術、ボクシング、合気道、相撲、太極拳など、さまざまな武術やスポーツを学んでいる。空手しか知らない人間には限界がある。空手しか知らなかったら、全く知らない想像もつなかい相手があらわれたら対処できない。実戦には空手以外の筋肉や反射神経も必要という考えだった。この言葉を効いて思いだすのは1964年の東京オリンピック無差別級で金メダルをとったヘーシンクだ。この人も日本人柔道家・沼上伯の指導を受けて、柔道以外にもランニング、フットボール、ウェイトトレーニング、レスリング、水泳などあらゆることをさせて、総合的で頑強な身体をつくりあげた。ヘーシンクは沼上の指導によく応え、アルコールを慎み、タバコも口にしないで、柔道一直線の鍛錬の日々を送っていた。それに日本のエース・神永昭が敗れたのである。
生涯の友として空手道の道を歩み、「おこらない、いばらない、おそれない」をモットーとした金澤弘和の人生は、精進、修養、求道の道である。ただ強くなるのが目的ではなく、健康長寿を強く意識したこの人の空手道は、年齢を重ねながら、カラダからココロに移行していく空手だろうか。人生100年時代の空手道だと理解した。
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