「名言との対話」7月25日。緒方洪庵「返す返すも六かしき字を弄ぶ忽れ」
緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士・医師・蘭学者。享年52。
岡山市出身。大坂に出て蘭学と医学を学ぶ。江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に学ぶ。長崎に遊学し医学を学ぶ。
1838年、大坂に戻り医業を開業。同時に蘭学塾「適適斎塾」(適塾)を開く。1849年、牛痘種痘法による切痘を始めた。1862年、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕。法眼に叙せられる。
緒方洪庵の信条は「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また、利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ」であった。
17歳からオランダ語を始めた洪庵はドイツ人医師フーフェランドのドイツ語の『医学全書』をオランダ語訳から重訳し、33歳から52歳まで20年かけて30冊の和訳『扶氏経験遺訓』として完成させ、幕末の医学に大きな影響を与えている。洪庵はこのライフワークの完成2年後に死去している。
杉田玄白(1733-1817)ーー宇田川玄真(1770-1835)ーー緒方洪庵(1810‐1963)ーー福沢諭吉(1835-1901 )と続く師弟関係があった。洪庵は適塾においての指導で、福沢以外にも大鳥圭介、橋本佐内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を輩出していることも特筆すべき業績である。
塾生は洪庵の穏やかな人柄と高い学識に傾倒した。福沢は『福翁自伝』において、自分が重病に陥ったときの洪庵の厚い看病によって生き延びたことに感謝している。そして「誠に類まれなる高徳の君子なり」と讃えている。
福沢諭吉を生涯のテーマとした慶應義塾の名塾長・小泉信三は、福沢諭吉に緒方洪庵が「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」戒め、福沢の「深く之を心に銘じて爾来曾て忘れたることなし」との言葉を紹介している。
「学問のすすめ」「福翁自伝」「文明論の概略」など福沢の著書は実に読みやすい。テンポのいい漢文調の文章、そして分かりやすい口語体の名文などの源は、師の緒方洪庵の影響であった。洪庵は造語の名人であったらしい。そのために漢学を学ぶことも勧めていた。福沢諭吉は、speechを演説と訳したことはよく知られているが、「西洋」「自由」などのもそうである。これも洪庵の影響ではないだろうか。
難しい言葉や言い回しの多用をレベルの高さと勘違いしてはいけない。どのような職業においても、難しいことをやさしく説明することを心掛けたいものである。