「名言との対話」。2月26日。高橋是清「 その職務は運命によって授かったものと観念し精神をこめ誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ」
高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣。
1854年に芝で生まれ、仙台藩士の高橋家の養子になる。横浜でヘボン夫人から英語を学ぶ。14歳、藩からアメリカ留学。明治維新を知り帰国。森有礼の書生、教員、翻訳業、駅逓寮の役人を経て、39歳で日銀に入り日清戦争で戦費調達に尽力した川田小一郎総裁に鍛えられ頭角を現す。1904年の日露戦争の外債募集を成功させる。1927年の金融恐慌では支払い猶予令(モラトリアム)を3週間敷き沈静化、、、。後に高橋財政と呼ばれるほど評価が高い仕事師だった。
私は2010年に江戸東京たてもの園の旧高橋是清邸を訪ねた。赤坂にあった政治家の高橋是清邸の主屋部分を移築した建物だ。1902年に完成してから1936年(昭和11年)に2・26事件で暗殺されるまで30年あまりを高橋はこの家で過ごした。総栂普請の和風邸宅。「不忘無」(無であることを忘れるな)という書がかかっていた。2階の部屋で寝間姿で布団に座っていた高橋是清に青年将校達は、銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死だった。2・26事件である。
高橋是清『随想録』 では、「仮にある人が待合へ行って、芸者を呼んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。、、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価およびそれらの運搬費並びに商人の稼ぎ料金として支払われる。、、芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。、、、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く」と経済をわかりやすく語っている。
「精神を磨いて、一身の品性を高め、引いて、感化を周囲に与え、結局は国民の品性を高め、更に子々孫々の品性を高めむる点に出来るだけの力を注ぐことが、我々のこの世に生存する第一の面目であることに先ず考え至るべきものである。」
高橋是清は若い頃にアメリカに渉っている。学費や渡航費用の着服、ホームステイ先の両親にだまされ、奴隷同然の生活を送っている苦労人である。この間に習得した英語が身を助けた。その高橋是清は、職務は運命として観念して奮戦激闘せよと言う。「いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力するので(することで)はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである」、というその心構えが高橋自身を大きくし、日銀副総裁として日露戦争という国難を救い、また金融恐慌、世界恐慌、を沈静化させるなど6度の大蔵大臣を担当し、2・26事件で斃れるまで長く国難にあたった。常に「運命」と観念して奮闘する姿が目に見るようだ。
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