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「名言との対話」5月20日。永井龍雄「芥川賞に回したらどうか」

永井 龍男(ながい たつお、1904年明治37年)5月20日 - 1990年平成2年)10月12日)は、日本の小説家随筆家編集者

東京都千代田区生まれ。高等小学校卒。16歳、文芸誌「サンエス」に投稿した「活版屋の話」が当選し、菊地寛の知遇を得る。親族に印刷関係者が多かったことで題材を選んでいる。帝国劇場の脚本募集に当選。創刊直後の『文芸春秋』に「黒い御飯」掲載。

23歳、文藝春秋社に入社。『オール読物』編集長、『文芸通信』編集長。31歳。創設された芥川賞直木賞の事務を担当。その後も『文芸春秋』編集長、編集局次長、取締役、専務取締役と昇進を重ねた。

戦後退社し、文筆活動に専念。1952年から1957年まで直木賞選考委員。1958年から1977年まで芥川賞選考委員。62歳、日本芸術院賞。68歳、菊池寛賞。71歳、川端康成文学賞。77歳、文化勲章・81歳、鎌倉文学館初代館長。

今回、私は『一個・秋その他』を読んでみた。永井の代表作の一つ『東京の横丁』は、「銭湯」「銀座の水溜り」「わが東京行灯」「武道館界隈」などを魅力的なタイトルが並んでいる。「東京の背骨」がわかる随筆であるといわれる。新聞、雑誌の切り抜き記事に感想を加えて書いた本である。

永井龍男は「芥川賞」選考委員の辞任騒動を起こしている。1976年、72歳の時には村上龍限りなく透明に近いブルー」の受賞に抗議。1977年、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」の受賞に抗議し、委員を辞任していて話題になった。

永井龍男全集』(全12巻)は、短編4、長編4、雑文3、俳句1(俳号は東門居)。16歳から始まった文学生活は86歳で亡くなるまで実に70年継続している。長い活動歴は、戦前と戦後に分けることができる。

戦前は文芸春秋社の社員として縦横に活動しながら、執筆活動も続けている。雑誌の編集長を歴任し、『文芸春秋』の編集長になっている。組織人としてもすぐれていたようで、編集局次長、取締役を経て専務にまで昇任し、最後は自ら辞任している。見事な二刀流である。

戦後は、文筆活動に専念し、数々の名作品を発表した。1955年には6冊、1965年は3冊、1972年は3冊、1976年は3冊と、多くの作品を書き続け、高い評価を得ている。

永井龍男の生涯をみると、菊池寛の存在を大きかったと感じる。16歳で、16歳年長の菊池寛の知遇を得て、文芸春秋社の入社を談判し、菊池寛の悲願であった「芥川賞」「直木賞」の事務方、選考委員をつとめた。芥川賞の委員辞任は、創設趣旨からはずれるという危機感がもたらしたものだろう。直木賞の選考委員は、70代前半まで20年近くつとめているから、永井龍男の生涯は菊池寛という師匠とともにあったのである。

芥川賞直木賞の双方に関与した永井龍男は、直木賞の候補であった松本清張「ある小倉日記伝」の作品を、芥川賞に回したらどうかと提案し、この作品は芥川賞を受賞し、国民作家となっていく松本清張をデビューさせていることも見逃せない。

二刀流の刀裁きの見事さ、文筆一刀流の冴え、そして恩師からの薫陶を大切にし、恩義に報いた生涯だった。その業績は、文化功労者文化勲章となって結実したのである。見事としか言いようがない。『東京の横丁』を読んで、永井龍男を偲んでみることにしよう。

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