「名言との対話」1月11日。山岡荘八「人はみな生命の大樹の枝葉なり」
山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月11日 - 1978年(昭和53年)9月30日)は、日本の小説家・作家。享年71。
新潟県魚沼市生まれ。1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。長谷川伸の新鷹会に入会。1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。1942年より従軍作家として各戦線で活動。『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。戦後、公職追放。
1953年より単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなって、1966年文壇長者番付一位となる。1967年『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞を受賞、1968年第2回吉川英治文学賞を受賞。1973年紫綬褒章受章。
『徳川家康』全26巻は、1950年から1967年まで18年間にわたって新聞に連載された歴史小説で、原稿用紙にして1万7400枚という大長編である。計算すると、1年967枚となるから1000枚ほどの量だ。1日に換算すると原稿用紙2枚半の約1000字。それを延々18年続けたことになる。
1983年にはNHK大河ドラマ『徳川家康』が放映された。テーマ音楽を担当した作曲家の冨田勲の郷里は徳川家康の生誕地・岡崎市であり富田は喜んでいる。キャスティングは、家康は滝田栄。秀吉は武田鉄矢。信長は役所広司であった。
山岡賢次編『遺稿 山岡荘八』(講談社)を読んだ。
娘婿の山岡賢次(1943年生まれ)は、娘・秀江と結婚し、9年間、秘書として一緒に暮らし尊敬する義父の影響を受け、後に政治家になる。自民党、新進党、自由党、民主党、生活の党で活躍。野田内閣で国家公安委員長として初入閣した。
山岡賢次によれば「一を以てこれを貫く」と言った孔子の「一」は「忠恕」であり、作家・山岡荘八の場合は「小説」であり、人間・山岡荘八は「情誼のみ」としている。
「男は瞑目するまで闘いの日々だ」、「われは大衆作家なり」との山岡荘八の言葉を記している。また50歳過ぎて『徳川家康』が売れすぎて1億円以上の収入があったが、税金は93%で残らなかったとの本人の述懐もある。当時の累進所得税は異常だったのだ。
この「自伝」は幼少時代、そして東京下町での青春時代の始まりまでで終わっている。腕白ぶり、才気、読みの確かさなどがわかる、そして明治・大正・昭和三代の社会史、風俗史としても読める作品だ。
山岡賢次の「補記」の「作家山岡荘八略伝 『遺稿 山岡荘八自伝』以後」がある。この中では作家活動を7つの時期に分けている。
1期:30歳から33、34歳ごろまで。恩師・長谷川伸との出会い。「日常の思考、行為のことごとく相手の立場に立っている。この人のやり方をおれは学ぼう」と誓う。戦前の作家活動の時期。27歳での結婚。
2期:34、35歳から39歳まで。昭和20年の敗戦まで。従軍作家の時代。
3期:39歳から42、43歳まで。戦犯になり、敗戦のショックで虚脱状態の時期。
4期:44歳から61歳まで。1950年から『徳川家康』を執筆した18年間の「徳川家康期」。他にも『織田信長』『豊臣秀吉』『新太平記』『毛利元就』などの長編を刊行した旺盛な執筆の時期。
5期:「徳川家康期」と同時期の財団法人「日本会」を設立し、機関誌「総調和」を創刊し、会長に就任した時期。
6期:62歳から67、68歳ごろまで。『徳川家康』で金字塔を完成した還暦以降の作家活動の総仕上げの時期。『小説明治天皇』『伊達政宗』『春の坂道(柳生宗矩』『徳川慶喜』を書いた時期。
7期:1974年(昭和49年)からとりかかった中津出身のモラロジー運動の唱導者・広池千九郎の伝記『燃える軌道』を1978年(昭和53年)に完成させてまもなく逝去。この間、天皇陛下御在位50年奉祝実行委員長をつとめている。
妻・山岡道枝はこの本に添えた「折々の記」で、「仕事を一応纏め、あっさりと遥かなる幽冥の世界へ、遺言も残さず旅立っていってしまった」との感慨を書いている。
「人はみな生命の大樹の枝葉なり」は、1969年(昭和44年)に日光東照宮境内に「山岡荘八著家康記念碑」の碑面に刻印された自筆の言葉である。日本民族という生命の大樹がある。日本人はその枝ぶりのいい大樹の枝であり、それに付随する葉である。徳川家康もその一つの大きな枝であり、取り上げた人物たちも枝である、ということだろうか。山岡荘八は、敗戦後に代表的日本人を描くことで、日本人を励ますために日本民族そのものの生命力の息吹を書き残そうとしたのであろう。使命感に支えられた尊い生涯であった。