「名言との対話」11月19日。吉井勇「命短し恋せよ乙女 紅き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを」

吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、大正期・昭和期の著作家、歌人、脚本家である

東京生れ。維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に持つ。 華族(伯爵)でもあった。早大政経科中退。中学卒業後の1905年新詩社に入り、『明星』に短歌を発表し注目された。1909年『スバル』創刊後は同人として活躍、戯曲にも手を染めた。1910年の第1歌集『酒ほがひ』は青春の情熱を奔放に歌いあげて高い世評を得て、1911年の戯曲集『午後三時』とあいまって耽美派の作風を展開した。以降紅灯の巷の情趣を享楽的に歌った1915年の『祇園歌集』、市井の寄席芸人の哀歓を写した1916年の戯曲集の『俳諧亭句楽』など、吉井勇調というべき独自の作品集を刊行し続けた。

最初の結婚に失敗し、数年後に再婚。「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。

人物探訪をしながら、吉井勇という名はよく見かけてきた。

2005年7月に尾道を訪問した時、吉井勇の名をみた。志賀直哉記念館、林芙美子記念館を経て、暑い中、千光寺の階段を汗をかきながら登りきったところに吉井勇の碑があった。「千光寺の御堂へのぼる石段は わが旅よりも長かりしかな」。吉井勇が51歳のときに詠んだユーモアと実感のこもった歌であるが、50代の私も共感した。山の頂上付近に安藤忠夫設計の尾道市立美術館がある。ベルギーの作家の展示をやっていたが、展示室から見える瀬戸内海の風景は絶品だった。

川口松太郎の小説『夜の蝶』、および同名の映画のモデルとなった上村秀のために、里見弴や吉井勇は短歌も何首か残している。

町田文学館で開催された「パンの会」に参加した野田卯太郎展では、与謝野鉄幹を中心に白秋、吉井勇、平野万里、木下杢太郎の5人が1907年に一ヶ月近い九州への旅行をしており、それがパンの会の誕生につながることを確認した。木下杢太郎を調べたときにも、新詩社の鉄幹、白秋、吉井勇、などと回った1907年の九州旅行の記述があった。

2020年に 世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」で吉井勇の筆跡をみたことがある。三島由紀夫の原稿が展示されており修正や追記が多かったが。吉井勇の原稿は殴り書きで読むのに苦労した。

京都祇園白川沿いに「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」という吉井勇の歌碑がある。谷崎潤一郎らが吉井の古希を祝って建てたものだ。それがきっかけとなって「かくかくに祭」が続いているというから訪ねてみたい。

「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」などの歌もいいが、代表作は 「命短し恋せよ乙女」で始まるゴンドラの唄だろう。吉井勇が作詞し、中山晋平作曲した名曲である。1915年の芸術座「その前夜(ツルゲーネフ)」の主題歌で、松井須磨子が歌ったのが始まりで、その後多くの人が歌っている。加藤登紀子、倍賞千恵子、美空ひばり、森繁久彌、藤圭子、ちあきなおみが歌う唄をユーチューブで聴いてみた。無常感に彩られた、命のはかなさと素晴らしさを歌ったいい歌だ。他にも小林旭、田端義雄、舟木一夫らも歌っている。100年以上経った今も、歌われている。これからも歌われ続けるだろう。この代表作を通じて、吉井勇の名は永遠に朽ないことになった。

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