「名言との対話」7月28日。宮武外骨「露骨正直天真爛漫、無遠慮」
宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日(慶応3年1月18日) -1955年7月28日( 昭和30年7月28日)は、日本のジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
香川県生れ。 18歳の頃、本名の亀四郎を「外骨」と改名する。「外骨」は中国の『康熙字典』の「亀」の項に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ骨ヲ外ニシ肉ヲ内ニセル者也)とあることによる。師は30歳年上の成島柳北である。
《頓智協会雑誌》《滑稽新聞》《大阪滑稽新聞》、雑誌《此花、日刊誌《不二》、雑誌《スコブル》など多くの新聞・雑誌を創刊。反官的風刺を行い筆禍をたびたびまねいた。大正後半には《賭博史》《私刑類纂》などの著述に専念し、ついで吉野作造らと明治文化研究会を組織し、明治文化史の研究に向かった。1926年、東大に設けられた明治新聞雑誌文庫の主任となり、在任中所蔵目録《東天紅》や《公私月報》を発行した。
吉野孝雄『宮武外骨伝』(河出文庫)を読んだ。この伝記は外骨の甥が書いたもので、1980年の日本ノンフィクション賞を受賞した作品である。吉野は8歳から外骨の最晩年をともに生活したから、作品に気迫がこもっている。この本の最後の掲載されている「著者ノート」には、亡くなった時の小学4年生の日記に「おじいさんの知り合いはみんなえらいかたばかりです」との記述がある。吉野にはこの本を書く理由があった。
外骨による雑誌、新聞、単行本の発刊は優に160点を超えたが、筆禍による入獄は4回、罰金刑15回、刊行物の発売禁止・発行停止は14回という隆々たる筆禍の歴史がある。平等思想が反権力となり、獄中生活がその思想に形を与えたのである。
当時、新聞記者の小川定明、学者の南方熊楠と並んで天下の三奇才兼三奇人とされた。外骨の場合には、「優れている者」に限らず、「変人」の意味も含まれていた。 流行や権力が生み出すメインストリームに抵抗する「奇人」の思想家の系譜に属している。
吉野作造東大教授が名著と評価している『筆禍史』には、小野篁から始まり、山家素行、貝原益軒、山東京伝、林子平、式亭三馬、為永春水、平田篤胤、渡辺崋山、柳亭種彦、荻生徂徠、、など約60件を詳述している。これはいつか読んでみたい。
また精力絶倫の 外骨は、房子、八節、末知、和子、能子など多くの女性と関係しており、結婚は正式には何回になるのかこの本を読んだだけではよくわからない。子どもには天から授かったとして「天民」と手なずけているのも外骨らしい。
15歳の少年の頃から新聞、雑誌の収集癖があり、読み終えた新聞や雑誌を1ページずつシワを伸ばして保存していた。その結果、明治期の新聞50,000枚、雑誌2万部510余種、単行本1500冊を中心に明治新聞雑誌文庫が東京帝国大学に創設された。博報堂の創立35周年の記念事である。外骨は61歳でその主任になった。その仕事が明日の新しい日本を作る源泉になるとして、その後も資料収集の旅を続けた。83歳の外骨は心血を注いだ明治新聞雑誌文庫をようっやく引退する。それは生涯をかけた仕事であり、墓標に変わる仕事になった。1955年、老衰で89歳で没している。墳墓廃止論者の墓は東京駒込の染井霊園にある。「露骨正直天真爛漫、無遠慮」の実にあっぱれな奇人の生涯だ。
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