「名言との対話」5月15日。犬養毅「順境とか逆境とか、貧富とかいふことを苦にするとせぬは、畢竟目的が定まって居るか居らないかにある」
犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日〈安政2年4月20日〉- 1932年〈昭和7年〉5月15日)は、日本の政治家。号は木堂。享年76。
岡山市生まれ。慶応義塾を卒業後、郵便報知記者。大隈重信の立憲改進党で活躍、また東京専門学校の第1回議員。若槻礼次郎内閣の後継として総理に就任。
1890年、36歳で第1回衆議院総選挙で初当選。以後、42年間で連続18期当選。1898年大隈内閣の文部大臣、1913年桂太郎内閣を打倒に貢献。
1911年の中国の辛亥革命では孫文を佐賀県荒尾の宮崎滔天の生家にかくまう。山本権兵衛内閣、加藤高明内閣の逓信大臣をつとめた。1929年、立憲政友会総裁に就任。
1932年12月に首相となった犬養は満州事変で悪化した中国との関係改善を試みるが、5月15日に総理官邸で海軍将校にピストルで「話せばわかる」「問答無用」という会話の直後に撃たれた。襲われた犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。「話せばわかる」というのはいかにも憲政の神様らしい言葉である。首謀者たちは軽刑、恩赦、満州国などの高官という流れの中で、2・26事件に発展していく。
国連高等弁務官として活躍した緒方貞子の曽祖父は犬養毅である。祖父は外相、母は犬養道子や安藤和津の従妹。日銀理事だった夫は、緒方竹虎の三男。竹虎の祖父は緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗った。犬養の精神は緒方貞子の中に生きていたのだろう。
2014年。岡山の生家近くに建つ犬養木堂記念館を訪問したことがある。犬養は盟友の頭山満とともに大アジア主義者として、中国、インド、ベトナムに太い人脈を持っていた。中国の孫文、康有為、インドのチャンドラ・ボースなどとの交流があったことがわかった。
「良くも悪くも、どのような環境も、目的を達成する途上にある。まず大いなる志を定めよ」と語る犬養毅は、「順境とか逆境とか、貧富とかいふことを苦にするとせぬは、畢竟目的が定まって居るか居らないかにある」とし、「不憂、不惑、不畏」という信条を胸に送った76年の生涯であった。5月15日は、木堂祭りが開催されている。雅号の木堂は孔子の『論語』に由来。名付けたのは栗本鋤雲。今年2023年には犬養木堂記念館で時任英人が「政治家・犬養毅とジャーナリスト・尾崎行雄」というタイトルで記念講演をしている。犬養毅は尾崎行雄(1858年ー1954年)とともに「憲政の神様」と称せられた。