「名言との対話」1月16日。谷 文晁「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」

谷 文晁(たに ぶんちょう、宝暦13年9月9日1763年10月15日) - 天保11年12月14日1841年1月6日))は、江戸時代後期の日本の南画文人画)家。享年77。

江戸下谷根岸に生まれた。10歳のころから狩野派の加藤文麗に絵を学ぶ。19歳のころ、南蘋派の渡辺玄対に師事した。1788年(天明8)田安徳川家に出仕。同年長崎に遊学して文人画を学んだ。

1792年(寛政4)には白河侯松平定信付となり、定信の江戸湾岸巡視に随従して《公余探勝図》を制作した。西洋画学習の成果がみられる。また96年には定信の命を受け《集古十種》編纂のため、畿内の古社寺に所蔵されている古書画類の調査と模写を行った。

精力的に旅をし、多くの文人墨客と交わって知己を得る。田能村竹田が文晁の門をたたき、酒井抱一、菅茶山、大田南畝蜀山人)といった人たちとの交流があった。

寛政期(1789-1801)には特に南宗、北宗(南宗画北宗画)の両画風を合わせた静謐な作風が目をひき、一般に「寛政文晁」と呼ばれて、画業の中の一時代を画している。

山水画を中心に花鳥画肖像画も手がけや。また《歴代名公画譜》《本朝画纂》《画学叢書》《日本名山図会》《写山楼画本》《文晁画譜》等の著作もある。

文晁の門からは田能村竹田のほか、渡辺崋山、などのすぐれた画家も輩出している。

近代に入る直近では寛政文晁」といわれるほど多く作品を描いている。その特色は、遠近法の採用し、描線は銅版画に倣い、明暗法を多用するなど、西洋画の手法を駆使していることだ。絵画の近代化の端緒を開いた画家である。

渡辺崋山(1793-1841)に影響を与えている。2005年に愛知県田原市渡辺崋山記念館を訪ねた。画家としての崋山は、線を主体とした東洋画に、立体・質感・遠近などの西洋画の手法を取り入れている。これも師であった谷文晁の影響であろう。「一掃百態図」などは庶民の生活を描いた動きのある名画である。「両国橋図稿」など動きのある風俗描写も素晴らしい。また、人物画にも優れ多く描いている。写生の中に、人物の性格も表現した。崋山と椿山(弟子)の人物画の企画展も開催されていた。鷹見泉石、佐藤一斎、林大学頭述斎、崋山像(椿山画)、ナポレオンなど多くの優れた人物画をみることができた。

2005年に大分県の旧・竹田荘を訪問した。江戸時代後期の画家(1777年―1835)。豊後岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。竹田資料館から少しのぼったところにある田能村竹田の過ごした家が旧・竹田壮だ。

2016年には大分県美術館の「片岡辰市」コレクション展でみた田能村竹田の「稲川舟遊図」の添え書きの中に「吾より古を作す」とあり、竹田の気概に感銘を受けたこともある。この画家も谷文晁の門下である。田能村竹田の過ごした旧・竹田壮の近くにある竹田資料館で「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌)という言葉を発見した。田能村竹田の絵ができあがるには、対象を見ては直し見ては直しするなど研究に研究を重ねる苦心が込められており、それが完璧な描写になってあらわれるのである。田能村竹田は精神修行者であり、それが優れた絵や詩や書に結実したのだろう。

同時代の友人となった江戸琳派の祖・酒井抱一は、狩野風を学び、沈南蘋の写生画風、浮世絵、加えて土佐派、円山派の技法を習得。親交のあった谷文晁からも影響を受けている。そして弟子の渡辺崋山、田能村竹田らとともに、日本の近代絵画のさきがけとして、77歳まで長く活躍した画家である。「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」、これは「辞世の句」である。

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