「名言との対話」10月15日。野村胡堂「ベートーベンは『人生のための芸術』(アート・フォア・ライフ)の最初のスタートを開いた音楽人である」
野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家、人物評論家、音楽評論家。
岩手県柴波町出身。旧制盛岡中学では金田一京助、下級生に石川啄木がいた。一高を経て、東京帝大法科大学に入学するが、学資が続かずに中退。報知新聞に入り、社会部長、調査部長、学芸部長などを歴任。
1931年、『銭形平次捕物控』第1作の『金色の処女』以来、1975年の26年間で383編を書き続けた。1949年、捕物作家倶楽部(現・日本作家クラブ)初代会長。
76歳の時に書いた『平次と生きた二十七年ーー筆を折るの弁』を読んだ。
野村は55歳あたりまで新聞社の要職にあった。50代は二刀流で小説も書いていた。彼はほぼ四半世紀にわたって文章を書き続けた。代表作の『銭形平次捕物控』は、400字詰原稿用紙3万枚というから、単行本で75冊分になる勘定だ。
銭形平次は、悪事を働いた人を捕まえるのが仕事だが、罪人に対してやさしく、寛大な裁き方をするので、人気があった。野村胡堂は、侍の肩を持たない、農民・町人をひいきにしていると語っている。東大で学んだ法律は、刑罰主義で違和感を持った。そのことが影響している。犯罪者を許す捕物帖の初代である。このシリーズは国民のあらゆる階層に人気あっった。吉田茂首相は「君の銭形を読んでいるよ」という愛読者だった。武者小路実篤もファンだった。映画にも15、6本なっており、本人は長谷川一夫の銭形を好んでいた。「銭形」は、単行本、全集、選集と刊行が続けられた。
「銭形平次」のテレビドラマは、1966年から1984年まで、実に888話が流れている。これはギネスの世界記録だ。開始後10年は、平均視聴率20%台という超人気番組だった。主役の大川橋蔵の銭形を私もみていたのだ。
野村胡堂という人物は、新聞記者、作家、音楽評論家などの面があり、また江戸時代についての知識も豊富な大教養人だった。世田谷区砧に住んでいた。いつだったか、その旧居の前を通ったことがあることを思いだした。
『野村胡堂作品集』では、音楽人に関するものが多かった。好きな作曲家は、戦闘の人・ヘンデル、旋律の泉・シューベルト。音楽の父・バッハ。真の天才・モーツアルト。父・ハイドン。悲哀の権化・チャイコフスキー。幸福な天才・メンデルスゾーン。ピアノの詩人・ショパン。情熱のシューマン。ピアノの巨匠・リスト。巨人・ワーグナー。孤独の哲人・ブラームス。、、、、、。
それぞれの音楽人の生涯と業績を解説している。それぞれの作曲家をあらわす冠も見事だ。野村胡堂を人物評論家との肩書を与える人があるのもうなずける。こういった人たちの中でも、ベートーベンを英雄と評価する胡堂の人物論は抜きんでている。
作曲家として致命的な耳の疾患という悲惨な運命にたち向かった英雄は、それまでの作曲家と違って「人生のための芸術」をスタートした偉人であるとしている。同時代にはナポレオンという世界的・歴史的な英雄がいたが、それでもベートーベンには叶わないという。なぜなら、現在でもベートーベンの作曲した曲は、世界中で演奏され、人々はいつも聴いて慰められている。世界中で、なおかつ何世代にわたって、影響を与え続けているからである。
私は音楽は門外漢であるが、友人の樋口裕一さんから「何といっても、ベートーベンですよ」と教えられて、CDを貸してもらって、納得したことがある。今でも外出時には、アイフォンで聴いて心を慰めている。
「人生のための芸術」。元は「アート・フォア・ライフ」である。アート・オブ・ライフ(人生は芸術である)ではない。ここでいうライフには、人生だけでなく、命という面も含まれている気がする。ベートーベンの曲を聴いていると、生命の躍動感を強く感じる。ベートーベンは音楽の位置づけを変えた。現在の私たちが聴く様々の音楽は、実に「アート・フォア・ライフ」ではないか。生活をよりよくする、人生をよりよく生きる、命を限りなく燃焼させる。そういう力があるのが音楽である。ベートーベンの人類に与えた貢献は比類がない。以上を考えさせてくれた野村胡堂に感謝したい。
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