「名言との対話」2月18日。良寛「散るさくら残るさくらも散るさくら」
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。
新潟県の良寛記念館を訪問した。出雲崎の名主の家に生まれる。少年時代は寝食を忘れるほど読書にのめり込む。北越を代表する儒学者に師事し中国古典を学ぶ。元服し名主見習いになった半年後に18歳で出奔する。
町名主などできないと悟り、22歳のとき備中(岡山県)の国仙和尚に師事し、大愚良寛の法号をもらう。円通寺で10年間修業し、禅僧修行を終了し印可を賜る。「良(まこと)はまた愚の如く 道うたた寛し、、」。愚のようにも見える実践への道が寛くて大きいことは良(結構なこと)である。33歳から諸国を乞食行脚する悟後の修行を積む。父の死を知り、39歳で帰郷するが乞食を続ける。48歳、真言宗国上寺の6坪(20へーべ)の五合庵に居住が許される。友人、文人、そして子供たちとの交流があった。
58歳、ふもとの乙子神社の草庵で10年。69歳、出身地島崎の木村家の裏の木小屋へ転居。良寛より40歳も若い30歳の貞心尼との交流が始まる。師を敬愛した貞心尼に看取られ74歳で遷化した。
道元の「正法眼蔵」を基礎にして儒教、道教も取り入れたため、「雑炊宗」ともからかわれたほど博識だった。自分のことより他を気遣う、決して怒気をあらわさないで人をいたわる「愛語」、反省する心得の「戒語」。仏教の菩薩行の実践者だった。「天上大風」など書にも長けていた。夏目漱石は良寛の書をみて「あれなら頭が下がる」と賛嘆した。会津八一をはじめ今なお信奉者の多い良寛の歌は万葉調の美しい調べが特徴だ。良寛は50歳から本格的に万葉集を研究している。
首を回らせば五十有余年、是非得失、一望の中。三房の五月、黄梅の雨。半夜蕭々として、虚窓にそそぐ。
六十四年、夢裏に過ぐ、世上の栄枯は、雲の往還。巌根の穿たんと欲す、深夜の雨、燈火明滅す、孤窓の前。
首をめぐらせば、七十有余年、人間の是非、看破に飽く。往来、跡は幽かなり、深夜の雪、一ちゅうの線香、古窓の下。
辞世の句「散るさくら残るさくらも散るさくら」。死の前日「かたみとて何かのこさむ春は花やまほととぎす秋は紅葉ば」。
「仏の生き方を学ぶということは、自己とは何かを学ぶことである。自己を学ぶとは、自己という意識を超えることである。自己意識を超えるということは、万法、つまり縁のあるすべてのことが、あるべきようにあらしめらっることであり、それは対象と私という、自他の対立関係を忘れるということである」。
良寛は、漢詩600首、和歌1300首。白道。白い道とは仏道のこと。
良寛を慕ったひと達。会津八一。相馬御風。こしの千涯「圓相」為すべきことを為し、円満なる相。
こしの千崖。1895年生まれ。41歳、相馬御風から「良寛さまのように生きなさい」と越後千崖の画号をもらう。「私は絵で良寛さまを描こう」。良寛の形を描く画家から良寛の心を描く画家と呼ばれた。64歳で没。佐藤耐雪。1876-1960年。85歳。良寛研究の奏斗。
良寛和尚は江戸後期に生きた人物である。後半は文化文政以降の日本の近代を生きた人物である。私は最近、「戒語川柳」というテーマで勝手に5・7.・5を並べているが、良寛に「九十戒語」という書籍があることを後で知り、親しみを感じている。良寛のことはもっと深く知りたくなった。