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「名言との対話」11月16日。水の江瀧子「一生懸命おすのが3人ぐらい、反対が7人ぐらいっていうのが、一番成功するんじゃないかな」

水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー、タレント。享年94。

北海道小樽市出身。松竹歌劇団第1期生で、ショートカットの髪型で「男装の麗人」と呼ばれた。ライバルの宝塚歌劇のスター・月丘夢路が瀧子の楽屋を訪ねたとき、震えたまま挨拶もできなかったほどの、少女歌劇の象徴的存在だった。愛称は「タアキー」だった。

1953年NHK開局と同時に始まったゲーム番組『ジェスチャー』という人気の長寿番組では紅組のキャプテンだった。パントマイムで、説明の時「この話はいったん置いといて」というふるまいは子供時代の私の記憶にある。『NHK紅白歌合戦』の紅組の司会を二度任されていることでわかるように大物だった。

1955年、日本初の女性映画プロデューサーになる。70本以上の映画の企画を実施し、日活の黄金時代を支えた。岡田真澄フランキー堺浅丘ルリ子山東昭子中原早苗和泉雅子吉永小百合舟木一夫などを発掘した。『太陽の季節』では、輝いていた石原裕次郎の主演を考えたが、会社の猛反対に会い長門裕之になるのだが、端役を割り当てられた裕次郎をのぞいたカメラマンの伊佐山三郎は「ファインダーの向こうに坂妻(坂東妻三郎)がいる」と感嘆したというエピソードがあり、水の江滝子の眼が正しかったことをうかがわせる。以後、『狂った果実』など裕次郎映画で日活は黄金時代を迎える。若手俳優、若手監督などが集う裕次郎が中心の才能集団をつくりあげた功績は大きい。こういう姿は知らなかったが、ゴルフの安田幸吉が引退後にゴルフ場設計の名人となったのに通じるものがある。

1981年の「ロス疑惑」で有名になった三浦和義は甥である。

晩年の1993年2月19日には森繁久彌が葬儀委員長の生前葬を78歳の誕生日の前夜に華やかに行って話題になった。“故人”となった水の江は冒頭、「自分の遺影や花で飾られた祭壇を生きているうちに見られるのはとても幸せ」と挨拶。ショパングレゴリオ聖歌、ロシアの宗教歌などが流れた。読経は浄土宗、曹洞宗日蓮宗コーランなど。それが終わると、78歳の誕生日を祝う「復活祭」に移り、賑やかなバンド演奏が始まった。

感性、触覚がすぐれ、独特の眼力が備わっていた才能豊かな人だった。その資質が大スターとなり、そして大プロデューサーとして花開いた。冒頭の「3割賛成、7人反対」説は、若手を発掘しスターに育て上げる名人だった水の江瀧子の新人発掘にあたっての知恵がある。全員が賛成するような、小さくまとまった企画や人物には、爆発力はない。

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