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「名言との対話」12月2日。蕗谷虹児「子どもたちに、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、いやしい絵を与えてはならない」

蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年明治31年)12月2日 - 1979年昭和54年)5月6日)は、挿絵画家詩人アニメーション監督抒情画という言葉の考案者

新潟県新発田市出身。14歳で上京し画家を目指すが。トラブルがあり19歳の時に樺太に渡り、旅絵師となる。21歳再び上京し「少女画報」の口絵でデビュー。22歳で竹久夢二と知り合いその紹介で花形になる。生涯「夢二先生」と慕っていた。

2011年に「魅惑のモダニスト--蕗谷虹児展」(そごう美術館)をみた。

1923年の関東大震災の後、次々に雑誌の震災特集を手がけている。「令女界」の関東大震災記念号では自身の「転げある記」という文章も掲載している。震災画集は4集手がけた。被災した人々の様子を繊細なペン画で仕上げている。1集では「生き残れる者の嘆き」「絶望」「落ち行く人々の群」「落陽」。2州では「戒厳令」「焼跡の日」「たずね人」「家なき人々」。カラーの4集では、「建設を描く」「建設の力」「復興の女神」などを描いていて、発災直後から、復興へ向けての様子がよくわかった。

1924年、『令女界』に詩画「花嫁人形」を発表。この作品は後に童謡になり、代表作となった。詩画とは、挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描いての想いを伝える絵のことである。こういった絵を「抒情画」と命名している。「現今の文豪楽界美術界を支配する名士の一人」となる。
1925年、本格的に画家として再出発するために渡仏。パリで個展を開き、展覧会で入選するなど活躍。1929年帰国。31歳、魯迅が上海で「蕗谷紅児画選」を発刊する。1935年、詩画集「花嫁人形」を出版する。

戦後の1954年には日本初の本格的アニメーションスタジオ「東映動画スタジオ」の設立に参加。1954年、日本初の本格アニメ映画「夢見童子」を監督した。

1966年、新潟市に「花嫁人形」の詩碑が建立される。15歳で紅児を生み、29歳で逝った発行の母の面影が、この詩を生み、杉山長谷夫の作曲で不朽の名曲となったとの説明がある。69歳、自画伝「花嫁人形」。70歳、三島由紀夫「岬にての物語」の紅児が挿絵装丁をしている。77歳、伊豆に温泉付きアトリエ。1979年、80歳で没。
1987年、新潟県新発田氏に「蕗谷虹児記念館」が建設され、1988年からは「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。歌詞は「金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ、、、」である。

蕗谷虹児の少女絵は母親像を抽象化し、純化し、展開していった過程であったのだ。子どもたちに「未熟な、いやしい絵を与えてはならない」という蕗谷虹児の生涯のモチーフは、哀愁に満ちた「花嫁人形」の表現された薄幸の母のイメージであったのだ。


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