「名言との対話」。9月28日。安田善次郎「今日一日、腹を立つまじきこと、今日一日、人の悪しきを言わず、我が良きをいうまじこと」
安田 善次郎 (やすだ ぜんじろう、 天保 9年 10月9日 〈 1838年 11月25日 〉 - 大正 10年〈 1921年 〉 9月28日 )は、 日本 の 実業家 。享年82。
富山市生まれ。1863年、江戸で両替商を開業。太政官札の取扱などで財をなし。1876年第三国立銀行、1880年安田銀行、1893年帝国海上保険、1994年共済生命保険を設立。潤沢な資金で社会資本整備に尽力したほか、不良債権処理、銀行の経営指導や再建に手腕を発揮。1921年に自宅で暗殺される。享年82。
東大安田講堂にその名をとどめている金融の神様・安田善次郎の生涯を記した北康利『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』(新潮社)を読んだ。
安田銀行は、富士銀行の前身で現在のみずほフィナンシャルグループ。帝国海上保険は、安田火災の前身で現在の損保ジャパン。共済生命保険は安田生命の前身で現在の明治安田生命。
金融を核に日本資本主義を先導した人物伝であり、金融とそこで働く人々の持つべき志とは何かというメッセージがこの本にはある。それは金融は経済の主体である事業家を支える縁の下の力持ちになるべきだという信念である。富士銀行出身の著者・北康利が、自らの働いていた銀行の創立者であり、世評に反して高い志を持って波乱の一生を終えた、そして忘れられた安田善次郎の真実の生涯に迫った力作である。
評伝という分野の優れた作品には、「なぜ今の時代にこの人か」という理由と、「なぜ私がこの人を書くのか」という理由がある。この本の中でも筆者は、頻繁に感慨や意見を述べいおり、また自身の出自や体験の記述を通して書くべき資格に納得させられる。白洲次郎伝もそうだったが、北康利さんは、この人でなければ書けないものを書く、という路線を歩いているようにみえる。
この本では「現在の価値で」という注釈がよく出てくる。それによって安田がなした業績が身近にわかるのもいい。
この本の中で安田善次郎の言葉を中心にその人となりを追ってみたい。
事をなすにはまず順序を定むべし
その土地の人情を知らねば商売などできない。
三つの誓い「1.独力独行で世を渡り他人の力をあてにしない。一生懸命働き、女遊びをしない。遊び、怠け、他人に縋るときは天罰を与えてもらいたい。」」「2.嘘を言わない。誘惑に負けない。」「3.生活費や小づかいなどの支出は収入の十分の八以内に止め、残りは貯蓄する。住宅用には身代の十分の一以上をあてない、いかなることがあっても分限をこえず、不相当の金を使うときは天罰を与えてもらいたい。」
私にはなんら人に勝れた学問もない、才知もない。技能もないものではあるけれども、ただ克己堅忍の意志力を修養した一点においては、決して人に負けないと信じている。
接客四箇条「1。お客の言うまま、店先にない物は早くさがしてあげる。2.選ぶ時は最もい品から取ってあげる。決して悪い品はまぜない。3.包み物はよく堅くしばってあげる。4.から世辞でなく、心からお礼を言う。」
(33歳から82歳の死の直前までの49年間、毎日日記を書き続けている。)
第一に望むのは、定めた目的に向かって順序正しく進むことである。すなわち目的に達すべき道程を正しく定め、しかして順序を固く踏んでいくことが何よりの肝要事である。
(善次郎は自分を支えてくれた人や自分の愛する人たちの命日を大切にし、大きな行事をする時にはその命日にあわせることで、彼らへの敬意や愛情を示し続けた。)
(父・善悦は「慈善は陰徳をもって本とすべし、慈善をもって名誉を求むべからず」と彼に語っていた。)
(最大の趣味は旅行だが、それ以外にも水泳、乗馬、剣道、茶道、生け花、謡曲、俳句、和歌、漢詩、囲碁、会画など実に幅広い。)
(彼の特徴は、何をしても長続きすることだ。、、、出世したしないにかかわらず人とのつながりを大切にする人だった。)
一度言明したことは、いかなる障害があろうとも断じてこれを実行せねばならぬ。
銀行を救済するのは関係重役や株主を救うためではない、その裏に何千何十万の預金者があり、且つまたそれには多人数の家族があるので、それを救うのである。
(朝食は、ご飯のほか数切れの香の物や梅干しと味噌汁だけ。それは生涯を通じてほとんど変わらなかった。)
今日一日、腹を立つまじきこと、今日一日、人の悪しきを言わず、我が良きをいうまじこと。
物に薄く、情に厚し
一個の事業の成功するか失敗するかの根本原因は、一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物の如何によって家スル(?)ことを言明して憚らぬ。
実行道人松翁
収益の幾分かを慈善行為に寄付し、必ず名聞望むべからず
人の厄介になることを甘んずる人間は本来意気地のない人間である。そういう人間は恵んでやるよりも寧ろ鞭撻するがよい。
(旅に出る時は手さげカバン一つ。見送りもさせず一人で飄然と出掛けるのを常とした。)
身家盛衰循環図系。困窮−発憤−勤倹−富足−修養−ゆぎ(真理の追究)−清娯(教養ある趣味)−安楽
同時代の渋沢栄一、大倉喜八郎(同年生まれ)、浅野惣一郎など日本資本主義を創ったライバルや同志たちとの邂逅も興味深い。この本は志無き、気力無き、そういう今の世に生きる私たちに喝を与えてくれる。
安田善次郎は33歳から82歳の死の直前までの49年間、毎日日記を書き続けていた。また善次郎は自分を支えてくれた人や自分の愛する人たちの命日を大切にし、大きな行事をする時には、その命日にあわせることで、彼らへの敬意や愛情を示し続けた。
「世路は平々坦々たるものにあらずといえども、勇往邁進すれば、必ず成功の彼岸に達すべし。勤勉、努力、節倹、貯蓄、一日も怠るべからず。」
大富豪になった安田善次郎は多くの陰徳を積んでいたが、世間の目は厳しかった。全共闘がこもったあの東大安田講堂は善次郎の寄付でできた建物である。浅沼稲次郎暗殺の日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校なども安田の寄付でできたものだ。「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。
最後は暴漢に襲われて生涯を終えるのだが、中傷と怨嗟の渦の中で国家のために怒濤のような仕事を完遂させていく善次郎の生涯は素晴らしい。克己と努力の人であった。人の悪口を言わない、自慢をしない。これは難しいことだが、安田善次郎は、そのことを意識して実行しようとしたことに胸を打たれる。
「今日一日、腹を立つまじきこと、今日一日、人の悪しきを言わず、我が良きをいうまじこと」。なかなかできないが、これを意識して生活していこう。