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「名言との対話」10月10日。阿武喜美子「私の歩いてきた道は、たとえまわりくねった細道としても、それはまさしく私が選んだ道と言えましょう」。

阿武 喜美子(あんの きみこ、1910年2月17日 - 2009年10月10日)は、日本の化学者、専門は生物化学。

山口県生まれ。山口高女を卒業後、東京女子高等師範学校で黒田チカから学び卒業後は教師になるが、研究を続けたいと父に願いをすると「研究者もよいが、教育者になることも大切だ」とアドバイスを受ける。東京文理科大学化学科に入学し、1937年に卒業。男子しか入学できなかった東京帝国大学大学院に入り、修了する。母校の東京女子高等師範学校の助教授を経て、34歳で教授に就任。叔父から「権道ではなく正道を歩め」と諭され、研究の場を理化学研究所に移す。1949年、農学博士号を取得した。

1950年にオハイオ州立大学客員研究員として渡米し糖の合成反応を研究。当初1年間の予定であったが、3年半に渡って炭水化物化学の研究に従事する。

1953年に帰国後は、東京女子高師が4年制大学に衣替えしたお茶の水女子大学化学科教授として生物化学を担当した。動物の結合組織からおおくのムコ多糖類を発見し,化学構造を決定した。1973年 理学部長。退官後は北里大学の客員教授を務めた。

黒田チカが名誉会長を退いた日本婦人科学者の会(現日本女性科学者の会)の初代会長をはじめ、日本結合組織学会会頭、日本農芸化学会評議員なども務め、日本の女性科学者の草分けの一人となり、また、女性研究者の育成にも尽力した。

お茶の水女子大の松本勲武副学長は2003年の「サイエンスチャンネル」の「女性科学者のパイオニアたち」という番組で、「 ロールモデル。抜群の管理能力も高い」と語っている。また1958年卒業の3人の教え子たちは「あこがれ。男仕立てのダークスーツ姿。さっそう、、」と述懐している。「一人国費100万円かかっている」とよく語り、後輩を厳しく熱心に指導したそうだ。その番組の中で、94歳の阿武喜美子は、父親はドイツに留学経験のある開業医で男女差別の思想はなかったために、「好きな勉強をしてきた、両親に感謝」と語っている。「私の歩いてきた道は、たとえまわりくねった細道としても、それはまさしく私が選んだ道と言えましょう」。自分で選んだ道を切りひらき、まわりくねった道を歩んできた先達の生涯の延長線上に整備された舗装道路を今多くの女性科学者たちが疾走してるのだ。阿武喜美子の99年の生涯は、後輩たちに今も勇気を与えている。ここにも偉い人がいる。


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