「名言との対話」8月6日。長与善郎「人間として一方弱いところがなかったら、人生は分からないでしょう」
長与 善郎(ながよ よしろう、1888年(明治21年)8月6日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、日本の小説家、劇作家、評論家。
東京出身。長与家は肥前大村藩の漢方医の家系。内務省初代衛生局長・長与専斎の五男。長兄は医師で男爵、次兄は実業家、三兄は病理学者で東京帝大総長、四兄は同盟通信社初代社長。
学習院に入り、1911年、に志賀直哉や武者小路実篤らの同人誌『白樺』に参加。東京帝大文学部英文科に入学するが、実篤から熱心に文学の道に進むよう説得されれ、翌年退学し、文筆活動を行う。関東大震災で「白樺」が廃刊となり、長与は「不二」を主宰する。プロレタリア文学の台頭時には、1932年から1934年まで、実篤との二人雑誌「重光」を発行した。
太平洋戦争中は、日本文学報国会理事。戦後の1948年、芸術院会員。1960年、自伝小説『わが心の遍歴』で読売文学賞を受賞。
この『わが心の遍歴』を手に入れた。父、兄、内村鑑三、武者小路実篤、夏目漱石、「白樺」、大学中退、トルストイ、ショーペンハウエル、倉田百三、梅原龍三郎、中国大陸、太平洋戦争、西田幾多郎、幸田露伴、近衛文麿、甘粕大尉、ヨーロッパ、アメリカ、老後の交遊、、、、。長与が生きた時代と同じ時代を生きた人たちとの交遊を軸に生涯をふり返った自伝である。明治。大正・昭和の日本の歩みと絡み合っており、「或る上層階級に属する特殊な性格を持った一個人僕と、その接したグループの交遊の記録ということになろう」とも「まえがき」で自虐的に語っている。
2019年、武者小路実篤記念館で開催中の「長与善郎と実篤」展を見る機会があった。
京王線仙川の実篤公園にある記念館と自宅を訪問する。5000へ―ベ(150坪)の公園には今までに数度、訪れている。ここに武者小路実篤は70歳で引っ越してきて、20年住んだ。
長与善郎の人物と活動の全般を扱う企画展はいままで開かれたことがない。今回が初めてである。父の長与専斎は、明治初年に岩倉使節団の一員として渡欧し、内務省初代衛生局長に就任した人物である。「衛生」という語は長与専斎が採用した。武者小路実篤の父も岩倉使節団に留学生として同行しているという縁がある。
1952年の「心」生成会の会合の写真をみると、武者小路実篤、安部能成、里見頓、大内兵衛、田中光太郎、安井曾太郎、広津和郎、志賀直哉、谷崎潤一郎、梅原龍三郎などがそろっている。豪華版だ。
実篤と3歳年下の長与の2人はいろいろな面で正反対だった。作品をあまり直さない実篤とどこまでも手を入れ続ける長与、酒を飲まない実篤と酒を好む長与、、。しかしうまがあった。考え方、価値観、志向や追求の方向性など、本質が近かった。互いに「君」と呼んでいた。
長与「君がゐてくれるのは本当に僕には力だ」「やはり僕を心底から理解する知己は君一人だと今更に感じ有難く思った」。実篤「長与を友にもつことを誇りにする」「長与は僕にとって最も尊い友達の一人である」
この企画展では、原稿や手紙多数展示されていた。長与の原稿は修正に修正を重ねている。欄外に修正点を書き、紙を貼り足すこともしばしばだった。おかしいのは、発表後の著作も修正し続けたというから徹底している。完璧主義者だったのだろう。長与が74歳で死去したとき、実篤は葬儀委員長をつとめている。
「人間として一方弱いところがなかったら、人生は分からないでしょう」は、長与善郎『竹沢先生という人』 の中に出てくる言葉である。地位も財産もなくしかも悠然として美しい生活を送る高雅な人物への回想を通じた思想的エッセイ的な長篇小説。平凡な日々の中に真実の生活があるという長与の人生観があらわれているとされている。
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