「名言との対話」5月22日。吉岡弥生「至誠一貫」
吉岡 彌生(よしおか やよい、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。
吉岡弥生は東京女子医大の創立者。女性医師の育成と婦人の地位向上に生涯を捧げた。
静岡県掛川市出身。医師の娘。1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことがきっかけとなって吉岡弥生(29歳は東京女医学校を開校する。この年は二葉幼稚園、津田梅子の女子英学塾が開学し、翌年には鳴瀬仁蔵の日本女子大学、藤田文蔵の女子美術学校も開校するなど、女子の高等教育の出発となった時期である。吉岡弥生は、「女子教育」という視点から、看護師、保健師、美容師、栄養などの分野でも先陣を切った。
驚くのは、31歳の時に学生たちの参考に自らの出産を見学させたというエピソードも残っている豪の者であった。52歳では関東大震災に遭遇し、苦労してつくった第二至誠病院を焼失している。1955年(昭和30)危篤に際し、勲四等宝冠章を賜る。しかし、叙勲の知らせで奮起し、奇跡的に回復したというエピソードも残っている。
2016年に訪問した東京女子医科大学の河田町キャンパスには、吉岡の像が建立されており、吉岡の名を冠した彌生記念講堂が設置されている。また、掛川市の吉岡彌生記念館や東京女子医科大学の吉岡彌生記念室などの施設では、吉岡の資料を収集、展示している。
酒井シズ編「女医吉岡弥生の手紙--愛と至誠に生きる」(NTT出版)を読了。
2016年に訪問した東京女子医科大学の創設者が生前書いた書簡を集めた本。東京女医学校(29歳)から始まり、東京女医学校校長(36歳)、東京女子医学専門学校(49歳)、そして東京女子医大(1951年。80歳)へと発展を遂げるための精進した偉い女性の考え方がよくわかる。また、この書は候文の形式の名書簡集でもある。手紙の書き方という面からも参考になる。
1900年(明治33年)に東京女医学校が開校する。この年は二葉幼稚園、女子英学塾が開学し、翌年には日本女子大学、女子美術学校も開校するなど、女子の高等教育の出発となった時期である。吉岡弥生は、「女子教育」という視点から、看護師、保健師、美容師、栄養などの分野で先陣を切った。
医学関係。「謹賀新年。庶政一新を望む者は すべからく自己一新を図るべし」「日本の医学は治療医学を良しとして予防医学を疎かにしたので、、」「治療医よりも予防医の方がむしろ女医に適しておると思います」「私の持論としては女医が結婚するには専門科目を異にすることがよいと思います」
学校経営の苦労。「学校騒動も不良教授解職が実行できませんので、何かにつけ不愉快のことはありますが、、」「中に赤の分子がおり種々の不穏の文字を並べたり、説いたりして生徒をを扇動し、、、」「一部左傾分子もあり、、」
人事案件で、病院の責任者を頼む手紙も多い。「御相談申したいことがございます」「この際あなたに、、」「最も適任と感じますので、就任くだされば好都合と存じます」など。
手紙。「時下薫風の候、あすます御清栄に渉らせ慶賀奉り候」「ようやく秋せいの句季となりましてお暑さ、とんと加わり、」「いかが御消光でいらっしゃいますかお伺い申し上げます」
52歳で遭遇し、第二至誠病院を焼失した関東大震災については「殊に震災当時のことは忘れようにも忘れられず、、、いつまでもいつまでもぞっとする思いがいたします。」
終戦の玉音放送では、「、、嗚咽を禁ずることができませんでした。不忠の軍人、無能の為政者、、陛下をお苦しめ申し上げること、悲しさと腹立たしさ、身の置き処を知らない境地に入りました。、、、しかし遅きに失したとは言え、国体護持のできますことは何よりのことと諦むるのほかはありません」
手紙は、人柄や書き手の本音がよく出るので、人となりがよく理解できる。吉岡弥生は誰に対しても率直に、そして丁寧に言葉を選んでおり、温かい人柄を感じさせる。多くの教え子の女医や、大隈重信、市川房枝などにも影響を与えたことがよくわかる。
同時代の女子教育の先達をあげてみよう。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)など。日本の近代女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
その一人・吉岡弥生は「至誠一貫」が座右の銘であった。吉田松陰は「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。」と言ったが、吉岡弥生は、松陰の言そのままに、「女子教育」という志を胸に、初めから終わりまでまごころを捧げ続けた人である。
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