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「名言との対話」10月8日。沖中重雄「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」

冲中 重雄(おきなか しげお)(「おき」の字はではなく、)、1902年明治35年)10月8日 - 1992年平成4年)4月20日は、日本内科学者。

石川県金沢市出身。いずれ開業を前提として父の従兄の沖中家の養子となり太田姓から沖中姓となる。一高理科乙類を経て東京帝大医学部卒。1945年8月15日に志願し任官した直後に終戦となった。わずか2時間だった。

1946年、医学部第三内科教授に抜擢された。17年とい長い教授生活で、神経内科、老年病学講座を開設している。

1963年の退官時の最終講義に、剖検(死後の病理解剖)750事例での誤診率14.2%と発表した。この数字は非常に厳格な基準であった。新聞は「患者はその率の高いのに驚き、一般の医師はその低いのに感動した」と書いている。

退官後、虎の門病院院長を10年。その後、沖中記念成人病研究所を設立し理事長をつとめた。1963年から宮内庁内廷医事参事もつとめ、天皇陛下の主治医となった。1970年の日航よど号ハイジャック事件に遭遇し、福岡空港で解放されている。1970年、文化勲章を受章。谷崎潤一郎をはじめ、吉川英治川端康成江戸川乱歩ら文学者らの主治医でもあった。石橋湛山首相の勇退は、沖中の助言であった。

「私は夢という字が好きである。どんな環境に置かれても、一生、何か夢を持ちながら生きていくことが、その日その日を有意義に送る糧であると信ずるからである」

「与えられた環境が私に適していたことと同時に、一方ではその中で、まじめに精いっぱいの努力を重ねてきた。これが私の進むべき道だと心に決めて手綱をゆるめることはまったくなかたと言っていい。苦しみに耐え、勝ち抜くがんばりの精神が、私のささえであり、唯一のとりえでもある」

研究者、教育者、そして臨床家としても、それぞれ優れた仕事をした人である。第二内科で手掛けた自律神経を中心とした研究を続け、講義に全力投球し東大第三内科の全盛時をつくりだし、研究所では臨床家として朝7時出勤、8時から回診、そして解剖検率を5割程度から9割まで高めようとした絶倫の人である。

「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」は医学の先達の言葉で、退官時に後輩に向けて語った言葉である。医学において臨床医は、毎日患者に接している。教科書に書いていることだけで診断、治療はできないことが頻発する。そういった事例に向き合うことが医学の進歩であるという戒めである。

そういえば、最近「臨床」という言葉を見かけることが多くなった。臨床は基礎研究に対応する言葉で、問題の起きている現場を大切にしようとする立場だ。医学に限らず、心理学は臨床心理、政治学では臨床政治学、また臨床経営学の試みがあるなど、学問も生身の人間、実践ということが重視されてきたことが、この言葉に現れているように思う。考えてみれば、それは「現場主義」のことである。現場に問題があり、現場に解決のヒントがある。


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