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「名言との対話」1月10日。伴淳三郎「『浅草から出たんだ』っていう意気込みでやりたいですね」
伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、本名;鈴木 寛定(すずき ひろさだ)、1908年1月10日 - 1981年10月26日)は、昭和期のコメディアン、俳優。
山形県米沢市生まれ。14歳で上京し様々な職業を渡り歩いた後、浅草の大衆演劇一座で喜劇俳優となる。チャンバラがブームになると映画俳優に転身、喜劇の神様・斎藤寅次郎監督に見いだされ、スターになっていく。
1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。 1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる。
1965年の映画『飢餓海峡『』ではシリアスな演技が高く評価され、役者としての幅を大きく広げている。
田山力哉『伴淳三郎 道化の涙』(現代教養文庫)を読んだ。喜劇俳優の実人生を追った実名小説だ。筆者はNHk勤務を経て、映画評論などを手がけていた人である。
伴淳自身がこだわってできた映画『二等兵物語』の大ヒットする。そして「駅前」シリーズが連続ヒットする。共演の森繁久彌を老舗、フランキー堺をレストラン、そして自身を大衆食堂、大衆酒場の味とと例えているのが面白い。
芸名は友人の役者の姓の「伴」が好きというと、創案した日活の大将軍撮影所長が「淳三郎」をつけて決まった。日活時代は太秦撮影所の永田雅一所長に目をかけられ、しだいに役がまわってくる。
日米開戦の前年のアメリカ巡業中に母が亡くなったことを知る。ロサンゼルスのホテルで親不孝を悔いた伴淳は屋上から飛び降りて死のうとした。それを慰めたのが6歳年下の清川虹子だった。後に二人は結婚する。離婚した清川は、伴淳の最後を看取っている。
NHKアーカブス「あの人の会いたい」の動画をみた。1980年の銀河テレビ小説「嫁っこはいねが」では、「いっぱい、やんねえが」が話題になり、「かあちゃん、一杯やっか」という日本酒のCMが流行語になった。連続テレビ小説「いちばん星」では山県弁で熱弁をふるう。スタジオでは酒の飲み方について、ビール、酒、洋酒でそれぞれ酔っぱらい方が違うとの観察を披露している。本人は酒は飲めない。味のある山形弁と独特の存在感で愛された役者であった。
この映像の中で「浅草から出たんだ」っていう意気込みでやりたいですねと述べている。故郷の米沢からでてきて、米沢に眠ることになる伴淳三郎の役者人生の古巣は浅草だった。日本の芸能の中心地であった浅草の大衆食堂、大衆酒場を自称した伴淳は独特の存在感があった。いくつかの演技をみたことがある私も、大衆と同じ匂いを感じた。それが伴淳の人気の秘密だった。浅草演劇出身というこだわりは、役者としての原点、あるいは意地であったのだろう。
伴淳は障害のある子どもたちのための募金活動である「あゆみの箱」の提唱者でもあることを初めて知った。