「名言との対話」6月23日。荻野吟子「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ」
荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん〉、1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 - 1913年〈大正2年〉6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である[1][2][7]。女性運動家。享年62。
埼玉県熊谷市出身。18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)。19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学東校付属病院に入院。子供を産めない体に。診察の羞恥屈辱感から、女性が女性を診るべきだと、女医を目指す決心をする。
24歳、東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生として入学、卒業。28歳、私立医学校の好寿院に入学、31歳で卒業。男装して受講。抜群の成績。31歳、医術開業試験嘆願書を、東京府、東京都、埼玉県に提出する。女性には認められないとしていずれも却下される。33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。35歳、本郷湯島に医院を開業。産婦人科。本郷教会で海老名弾正から洗礼。東京婦人矯風会に参加、後に風俗部長。36歳、大日本婦人衛生会に参画。翌々年明治女学校教師校医。舎監。
40歳、熊本県の志方之善27歳と結婚。同志社の学生。「志方と一緒に神の道を進みます」。45歳、北海道での夫のキリスト教理想郷建設に協力。トミを養女に。46歳、医院を開業。淑徳婦人会会長。婦人解放運動に先駆。54歳、夫病死。57歳、北海道を引き揚げ、東京都向島に医院を開業。(北海道瀬棚町に記念館)。東京女子医大を創設した吉岡弥生は医院にも足を運んでいる。吟子の影響を強い影響力を感じさせる。
「女医になる。きっと女医になってやる。きっとなる。きっとなってみかえしてやる」
「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った」
「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡めることは女性の地位を高めることになるはずです」
「人とその友のために 己の命を 捨つるは是れより 大なる愛はなし」
2016年に群馬県熊谷市の荻野吟子記念館を訪問した。渋沢栄一、塙保己一と並ぶ群馬の一人として讃えられていた。記念館のある公園に像が建っており、愛誦の聖句が刻まれている。「人とその友のために 己の命を 捨つるは是れより 大なる愛はなし」。公園の裏手は利根川だった。菜の花がいっぱい咲いて感動的だった。
この人の生涯は感興を誘う。作家の渡辺淳一は『花埋み」として1970年に小説にしている。1998年に三田佳子主演の舞台「命燃えて」が脚光を浴びる。
2022年にNHKラジオ深夜便で山田火砂子(90歳)のインタビューを聴いた。山田は現役の映画監督だ。全国の小劇場で公開中の映画「われ弱ければ 矢島楫子伝」が話題だった。
矢島楫子は1833年生まれの女性のために社会改革運動を推進した人物。そしてもう一人が日本初の女性医師である荻野吟子が主人公だ。山田はこの小説を読み、映画作りを決心する。また山田自身の子どもの知的障害がきっかけとなって、日本初の知的障害児施設「滝乃川学園」の石井筆子の存在を知ることになって、映画『筆子その愛ーー天使のピアノ』を監督している。
女性の生き方をテーマとした一つの流れがあることがわかった。矢島楫子。荻野吟子。三浦綾子。石井筆子。山田火砂子。三浦綾子が書いた矢島と荻野の物語を山田が映画化し、石井筆子も含めて映画にしている。山田火砂子が伝えようとしいる先人の姿、特に優れた女性の生涯を知って欲しいという強い志に深い感銘を受けた。
1999年に発刊された『女たちの20世紀100人ーー姉妹たちよ』という本がある。日本初の女性医師・荻野吟子、女子教育の先駆者・津田梅子、東京女子大で新渡戸稲造の後を継いだ2代目学長・安井てつ、さらに樋口一葉、上村松園、柳原白蓮、神近市子らと並んで、日本初の女性検事・門上千恵子らが紹介されている。 女性の社会進出の歴史を構成する長い、長い列に並んだ人たちだ。その列は今もえんえんと続いている。
明治の女子教育の先駆者たちの先達がこの荻野吟子だ。埼玉県熊谷市俵瀬の荻野吟子記念館でじっくりと人生を眺めると、苦労の連続の激しい一生に頭がさがる。人と違うことを成そうとするからには、人と同じ安穏な生活を望んではならない。これでいいのだときっぱりと言う荻野吟子は、日本近代のとびらをこじ開けた志の女性である。