「名言との対話」10月14日。トニー谷「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」
トニー 谷(トニー たに、1917年〈大正6年〉10月14日 - 1987年〈昭和62年〉7月16日)は、 舞台芸人(ヴォードヴィリアン)。本名、大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。
東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座出身。「トニー」という芸名は外人からつけられたあだ名である。姓の「大谷」のタニーをもじってトニーと呼ばれ、それがトニー谷 となった。村松友視『トニー谷、ざんす』(毎日新聞社)を読んだ。
ヴォ―ドビリアンという言葉にこだわっていた。コメディアンではない。歌と踊りと笑いを総合した舞台をつくる芸人だという心意気だった。
「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」「ネチョリンコンでハベレケレ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「バッカじゃなかろか」など独特の喋りで爆発的な人気を博した。このうちのいくつのリズミカルなテンポのいい言葉は私の耳にも残っている。
芸能界では誰に対しても吐く毒舌と嫌味な行動で嫌われたが、エノケンこと榎本健一だけが「君の生命はアドリブにある」と励ましてくれた。「レディーズ・アンド・ジェントルメン」とやると「分かんねえぞ」と野次られて、「アンド・ミーチャン、ハーチャン」と切り返し喝采を浴びるという調子である。トニーのアドリブは天才的だった。
トニー谷流英語は「トニングリッシュ」と呼ばれ、一世を風靡した。英語を日本語にしてそれを七五調に仕立てなおしたカタコト英語である。敗戦を認めたくなかった支配層はトニーに強い妬みを持ったと言われている。
異端児、風雲児、ゲテモノ、戦後の混乱期に咲いた流行児、毒、トニー現象、植民地芸人、ニュースをひっくり返す天才、、とトニーに対する評価は独特だがいいものは少ない。私も子ども頃に、テレビでそろばん片手に芸を披露する姿を見て楽しんでいた。
「私の人生は二十九から」とトニーは語り、それ以前の辛酸をなめつくした不幸な生い立ちについては秘密にしていた。生まれ変わったのだ。それ以前のことが世間に知られたのは、世間を騒がせた6歳の息子の誘拐事件だった。
トニー谷がこだわったのはヴォードビリアンという名前である。ヴォードビリアンとは通俗的喜劇、歌曲・舞踏・軽業・寸劇などを組み合わせた寄席的見世物をみせる芸人と「広辞苑」にある。ネタは新聞、ラジオ、テレビ、日常体験を利用して、寸暇を惜しんで拾い、大学ノートに書きつづる。この手の芸人は次々と新しいネタで勝負しなければならない芸人は辛いと思うが、日本ではこの分野ではトニー谷は傑出している。「ひとに真似されるのも、ひとの真似をするのも大きらい。ぼくにしかできないものをやりたいのよ」。
浮き沈みの振幅が大きい芸人だったが、10年周期でエネルギーを爆発させるというしぶとさを持っていた。時代をよく見つめていたということだろう。
69歳で亡くなった後、遺品のそろばんは永六輔が引きとり、四谷のトモエ算盤社内にある「そろばん博物館」に展示されている。トレードマークのメガネは大村崑が譲り受け、福井県鯖江市の「めがねミュージアム」に寄贈・展示されている。
「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」というトニー谷は、案外、生真面目な芸人だったと思う。芸人は生き方だという覚悟はすさまじい。芸能人でもなく、芸術家でもなく、芸人を自称した。「芸人」については、芸と人のことだといった森繁久彌なども思いう浮ぶ。タモリ、たけし、さんま、ダウンタウンなど、俳優や歌手などをはるかに超えた感のある現代のスーパースターたちの芸人論も聞いてみたい。彼らはその場を仕切る司会という立場にいる。猛獣よりも猛獣使いの方が地位が高くなっているのが現代だ。