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「名言との対話」。12月30日。ユージン・スミス「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」
ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。享年59。
ユージン・スミスは1918年、アメリカ・カンザス州⽣まれ。母からもらった14歳から写真を撮り始め、16歳で地元紙に写真が掲載される。18歳になった37年、プロの写真家を⽬指しニューヨークへ移り、『ニューズウィーク』誌のスタッフ、『ライフ』のカメラマンを経て、1943年、『フライング』誌の戦争特派員として太平洋に向かう。その後『ライフ』誌と契約し、サイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄などの戦場を撮影する。しだいにたたかいの渦中のおかれた人間を撮るようにある。沖縄では砲弾の破片をうけて負傷する。この負傷でユージンは生涯で32回の手術を受けることになる。戦いで名翻弄される人間を撮った写真によって、40年代から『ライフ』専属のの花形カメラマンとなっていく。「医学」「科学」「芸術」をテーマとしたフォト・エッセイと呼ばれる報道スタイルは高い評価を得ていく。1958年には「世界でもっとも偉大な十人の写真家」に選ばれた。
1961年には日立の仕事で日本に滞在。31歳年下のアイリーン・美緒子を妻としたユージンは1971年からは熊本県⽔俣市に移り住み、3年にわたり有機⽔銀による公害を取材する。後の「水俣病」である。「水俣でくりひろげられている、公害をめぐるドラマがおわるまでこの土地をはなれない」と決意する。1972年に東京駅近くのチッソ本社まえに坐り込む。それは1年8ヶ月にわたった。チッソ五井工場で暴行を受けて負傷する。1972年6月2日号の『ライフ』での「排水管からながされる死」、続いて「アサヒカメラ」10月号の水俣特集で写真を発表する。
帰国したユージンはアリゾナ大学で教鞭をとることになる。そして大学ではユージンの写真を保存する機関をもけてくれた。
第41回産経児童出版文化賞を受賞した『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』(佑学社)に加筆した偕成社の新装版を読みながら、ユージンというカメラマンの生涯を追う中で、東京のチッソ本社で座り込むシーンをみつけた。1972年から翌年にかけてのことである。私が1973年に就職した日本航空の本社はチッソが入っている同じビルだった。確かに最初に本社を訪ねた時から何度か、水俣病の患者側の人たちの抗議ともめている様子を覚えている。あの中にユージンがいた可能性がある。
若い頃、「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」と決意したユージンは、人間の生のユーモラスな面や悲劇的な面を、かっこうをつけずに現実的に撮ることをめざした。テレビ時代になって速報性で勝負できなくなった写真家たちは苦悩する。「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」(ユージン・スミス写真集1934-1975)というユージンは人間の素顔の表情をとるために、長い時間をかけて被写体と接することで、人間を描きだしたのだ。ユージンが亡くなったとき、世界中の50以上の新聞が死を報じているころからわかるように、写真という表現方法の革新者だったのだ。