「名言との対話」 2月27日。蜷川虎三「志は高く、俗につけ」
「名言との対話
蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、日本の政治家、経済学者、統計学者。
17歳、農商務省水産講習所本科養殖科入学。20歳、助手。25歳、京都帝国大学大学院入学。29歳、経済学部講師。30歳、助教授。31歳、ドイツ留学、33歳、帰国。42歳、教授。48歳、学部長。49歳、辞職。51歳、初代中小企業庁長官。53歳、社会党公認で京都府知事選に立候補し当選。57歳、再選。61歳、三選。65歳、四選。69歳、五選。73歳、六選。77歳、七選。81歳、引退。1981年84歳、永眠。
虎退治の加藤清正の祭りの日に生まれたこと、三男であったことから、虎三と命名された。子どもの頃はロマンチックなところがなく、恥ずかしくれイヤだったそうだ。嫌でたまらなかった。こういう例はいくつもある。「あわただしき文明開化の落しものあわれなる名を一生持ちたり」と嘆いた土屋文明など。しかし、成人すると「虎さん」と親しく呼ばれて強みにもなっていく。
「貧乏物語」の河上肇にあこがれて京都大学選科に入学。そして大学院を卒業後、講師になる。すぐに助教授となるが、12年かかってようやく42歳で教授に昇進する。敗戦後、学部長としての責任をとるため京大を去る。50歳だった。1948年に中小企業庁初代長官。蜷川の中小企業の定義は「大資本の圧力を受け、弱小経営を余儀なくされている企業」だった。
1950年、京都府知事に当選する。部長会議を重視し、根気よく教育し指導した。それは蜷川ゼミナールと呼ばれている。二期目には最悪の財政に陥った府の財政をの再建計画を立てる。夜の宴会は断り、政策立案に没頭し、7年の財政再建計画を1年前倒しで達成した。そして高い実務能力と公約の実現力で、53歳から28年間の知事生活を送った。革新知事として、東京の美濃部亮吉都知事、大阪の黒田了一府知事などが登場する時代のさきがけだった。
蜷川知事は高校全入運動の先頭に立った。そのスローガンは「十五の春は泣かせない」であり、大きな話題になった。また高校は予備校ではないとし、学力テストに反対し、全人教育を推進している。
夜間の宴会には一切顔を出さない。そして自宅の書斎で読書と執筆に専念した。その結果、5万冊の蔵書を持った。万年床に横になって読む、それを「水平読書術」と称していた。明治気質、下町気質、学者気質の持ち主で、趣味はボクシング、将棋、句作だった。「朝顔の美しく咲いた朝も楽しまず原爆忌」などの句は、人を動かす力を持っていた。
「人間の命には限りがあるけれども、学問には限りがないのよ」は大事にした母の戒めだ。そして信条はマルクス『資本論』の序言で引用したダンテの「汝の道を進め、そして人々をして語るに任せよ」であった。蜷川は本人は自らを「行政職人」と呼んだが、学問も大事にした。母の戒めと信条に沿った生き方をしている、といえるだろう。
『蜷川虎三の生涯』(細野武男・吉村康)を読むと、千本釈迦堂での豆まき、100歳時の大西良慶師との語らい、真鶴港視察、府庁旧本館前、にぎりめしを食べる時など、掲載されている写真は多くの場合、笑顔である。人を懐に誘い込むような明るい笑顔だ。
蜷川が書いた「凡人の詩」という詩がある「わたしが死んだら骨にして ないしょで鴨川に捨てておくれ、、、、これで何もかもおしまいだ 墓をつくっておがんだところで お経をあげて かねをたたいてみても このわしが仏になれるわけではない ながい人の世に流されてきただけだ ただそれだけだ」。これが蜷川虎三の死生観だ。
同じ革新知事であった沖縄の屋良朝苗知事には、琉球政府行政主席の選挙時に「志は高く、俗につけ」と激励した。理念は高く掲げても、沖縄の厳しい現実から目を離してはいけない。この言葉は屋良知事の指針となった。どのような世界にあっても、改革者、革新者と自認する者にとっては金言だと思う。革新知事としてしか知らなかったが、誠実で勇気があり、心が温かい人という印象を持った。「人間・蜷川虎三」の生き方に共感を覚えた。
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