「名言との対話」1月9日。海部俊樹「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」
海部 俊樹(かいふ としき、1931年〈昭和6年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉1月9日)は、日本の政治家。第76・77代内閣総理大臣。享年91。
愛知県名古屋市出身。早稲田大学法学部卒業。1960年、自由民主党から全国最年少で衆議院議員初当選し三木派に所属した。三木武夫内閣の官房副長官となりさわやかな弁舌で注目される。その後、福田赳夫内閣、中曽根康弘内閣で文部大臣。
1989年に自民党がリクルート事件で惨敗した後に、宇野内閣退陣で、最大派閥竹下派に推され総裁となり首相に就任。翌年の湾岸戦争では多国籍軍への資金援助と自衛隊艦派遣を行った。
1991年、政治改革を目指した選挙制度改革案が自民党内の支持を得られずに衆議院解散の動きを見せたため、竹下派の反発を招き総辞職。その後、1994年に自民党を離党し、新進党党首に選出された。自由党・保守党などを転々とし2003年に自民党復党した。
私は20代のJALロンドン空港勤務時代に訪問中の父母を見送るためにラウンジで歓談しているときに、海部さんがいるのを見つけた。父は写真を撮っていたことを思いだした。
「神輿は軽くてパーがいい」と自民党竹下派幹部の小沢一郎が言い、総裁、総理となったといわれている。トップは誰でもよくて、担ぎやすい軽い政治家がいいという意味である。田崎史郎は1994年10月号の『文芸春秋』で、この言葉は海部をさしたものではなく、誤って伝えらえたと説明している。
海部には弁舌の才があった。早稲田大学雄弁会で活躍した学制弁論大会で優勝したとき、審査に当たった当時の総長から、「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」と評されて、この言葉が有名になった。
海部には人脈があった。早稲田大学雄弁会は、石橋湛山、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森毅郎5人の総理を出している。有力政治家としては三木武吉、浅沼稲次郎、中野正剛、緒方竹虎、石田博英、青木幹雄。現役では下村博文、安住淳など。首長は黒岩祐治。その他として、三宅久之、田勢康弘、尾崎士郎もいる。総理就任時は、親しかった雄弁会の先輩である竹下登から口説かれている。
海部には天運があった。師事した三木武夫は、田中角栄首相に退陣で、椎名悦三郎副総裁による裁定で首相に指名された。「私は国家、国民のために神に祈る気持ちで考え抜きました、、、私は新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます」。いわゆる椎名裁定である。三木は「青天の霹靂だ。予想だにしなかった」との言葉で受諾した。海部の場合も、自民党の苦境下、大派閥の事情によってお鉢が回ってきた。面白いことに政治だけでなく、さまざまな組織でも時々こういう人事がある。
海部俊樹という政治家は、弱小派閥に属していたにも関わらず、総理の座を射止めたのは、本人の才能と人脈と天運のなせる業であった。そして、海部は2年を越える期間、力を振り絞って重要課題に立ち向かった。
学生時代に評価された「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」という弁舌の評価が一生ついてまわった。時節の到来という運命が口をあけたときに思いがけないことが起こる。評判というものの威力を感じるエピソードだ。人間は評判が大事だ。評価ではなく、評判である。人事は味方や敵を含めた周囲の評判によって決まるという見本であるとまとめておこう。
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