「名言との対話」7月30日。立原道造「風信子(ヒアシンス)」
立原 道造(たちはら みちぞう、1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日)は、詩人、建築家。
東京日本橋生まれ。父の死により5歳で家督を相続。7歳、子供向け科学雑誌を愛読。13さい、パステル画を始める。14歳、短歌に関心。15歳、神経衰弱。北原白秋を訪問。天体観測に熱中。16歳、校長留任運動のリーダー。金田久子への愛をテーマとした自選詩集『推奨簾』を書く。17歳、府立三中を四年修了し一高理科甲類に入学。短歌雑誌「詩歌」に投稿を開始。堀辰雄の面識を得る。18歳、一高文芸部委員。三好達治を愛読。19歳、堀辰雄を訪ねる。20歳、東京帝大工学部建築学科に入学。丹下健三の一つ上。軽井沢で室生犀星を知る。21歳、小住宅の設計で建築界の奨励賞である辰野賞を受賞。新鋭の詩人として注目される。22歳、2回目の辰野賞。23歳、3回目の辰野賞。卒業後、石本建築事務所に就職。信州追分の定宿の油屋の火事で九死に一生を得る。24歳、水戸部アサイと交際。第1回中原中也賞を受賞。24歳8か月で急逝。
命日の3月29日は「風信子(ヒアシンス)忌」である。ヒアシンスはギリシャ神話の美少年ヒアシンサスが太陽神アポロンが誤って投げた円盤が額を割った血から生まれた花だ。道造自身も白皙の美青年だった。恋人だった水戸部アサイによれば、道造は計画魔であり、便箋と封筒は新橋のいとう屋でなければ承知しないというように、こだわりの強い人だったそうだ。
立原道造は堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。師にも師がいる。兄貴分の堀辰雄は立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を執筆している。
1997年、文京区弥生に立原道造記念館が設立されたが、2011年2月20日に閉館。2012年2月、信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)内に「立原道造記念展示室」が新設されたが、後に閉館している。
立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工した。ここを拠点に今でも「ヒアシンスの会」がある。この地は昭和初期に「鎌倉文士に浦和画家」といわれた芸術家の村だった。道造は五坪ほどの小住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼んでいた。
同級生への手紙には「、、浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなしいかげりのなかで花ひらくのだ」。「五十坪のなかへ 四坪半の小家?を建ててもまだ広すぎる位です」と語っている。
草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」では、ヒヤシンスハウスとおぼしきイメージが語られている。「僕は、窓がひとつ欲しい。あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……」
立原道造は、1937年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。「芸術家コロニイ」を構想し、自ら住む週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだ。
角川春樹『立原道造詩集』(ハルキ文庫)を読んだ。やさしい語り口の詩で青春のただ中にある青年を感動させるだろう。林、鳥、小鳥、雲、小川、風、微風、夢、麦藁帽子、花などがでてくる。
2005年に本郷の竹久夢二美術館と立原道造記念館を駆け足で訪問したことがある。今度は、夭折の詩人、立原道造の夢の住宅「風信子(ヒアシンス)ハウス」を見に行きたい。
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