「名言との対話」6月30日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」
「名言との対話」6月30日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年(明治6年)11月24日 - 1957年(昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。
愛知県一宮市出身。筆墨紙商の長男。14歳で京都の四条派・望月玉泉の門に入る。3年後に円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。第3回国内勧業博覧会で入選。17歳で「玉堂」と改号。
23歳、上京し橋本雅邦に師事。岡倉天心創立の日本美術院には当初から参加した。1907年、文展審査員。1915年、東京美術学校教授。1917年、帝室技芸員。フランス政府、ドイツ政府から勲章を授与される。日本画壇の中心人物の一人となった。67歳、文化勲章。
戦時中は東京都西多摩御岳に疎開。その住居を「寓庵」、画室を「随軒」命名していた。日本の四季の山河と、人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描いた。
2008年、御岳(みたけ)にある「玉堂美術館」を訪問した。この美術館は死後4年後の1961年に開館している。到着したとき、突然の豪雨に襲われた。「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。美術館の近くにあるレストランで食事を摂ろうとするが、雨宿り組が多く時間がかかりそうなので、日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。
川合玉堂は19歳ほど年下の国民的作家・吉川英治とも親しかったそうだ。玉堂は横山大観と並び国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に吉川英治(青梅市)も住んでいた。国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。
玉堂は書も、俳句、短歌も巧みであった。「河かりに孫のひろひしこの小石 すずりになりぬ歌かきて見し」。これは孫が拾った石を硯にして、座右の珍としたときの歌である。
「武蔵小金井」という駅名にひっかけて、「あの剣豪の宮本武蔵には子供があったかね」と尋ねていたという。玉堂はしゃれの名人でもあった。
冒頭の言葉は晩年のインタビューで「先生、日曜日はどうしていらっしゃいますか、絵をお描きにならないときは何をしていらっしゃいますか」と聞かれたときの玉堂の答えだった。1年365日、絵のことを考え、ひたすら絵を描くという一直線の生涯であった。