「名言との対話」3月27日。唐人お吉「どうせ正気じゃ世渡りできぬ 剣菱 持て来い 茶さん酒」「さめちゃ浮き世がうろそてならぬ」
斎藤 きち(さいとう きち、 1841年〈天保12年〉- 1890年〈明治23年〉3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸妓、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。
下田に「唐人お吉記念館」がある。2010年に訪問した。
下田という港は昔から避難港で、近海を航行する漁船やその他の大型船も嵐になるとこの穏やかな湾に逃げ込んでくる。色街もあり、「伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布がかるくなる」と謡われた場所である。
お吉(本名・斉藤きち)は、1841年に誕生。14歳で芸者になり「新内明烏のお吉」と評判をとる。16歳、鶴松と将来を誓い合う。
17歳、総領事ハリスの侍妾として領事館に入る。年俸120両(600万円に相当)、支度金25両。19歳、ハリスが公使となり江戸の善福寺に入る。日米修好通商条約締結により役目を終える。
22歳、京都で芸者。28歳、鶴松と再会し同棲。31歳、下田に帰る。大酒を飲み夫婦仲は悪い。36歳、鶴松と別れ三島で芸者。38歳、下田で髪結業。42歳、料亭「安直楼」を開くが、44歳で廃業。49歳、半身不随。51歳(1891年)、投身自殺。
幕末から明治にかけて世の中が激動したときに、ハリスの侍妾として幕府の役人から恋人と別れさせられ、説得されてハリスのもとに入る。日本側のスパイとしての役目もあった。その後も、権力に利用され、人々の偏見の多い(ラシャメン「洋妾」)にさせされ、開国の生け贄として悲劇的な一生を終えたこの女性の物語は、映画、小説、歌舞伎、テレビ、レコードに何度となく取り上げられている。水谷八重子、佐久間良子、太地喜和子などが、お吉を演じている。お吉の一生を描いた物語は、人々の共感を呼んでいる。ラシャメンは、日本にきた西洋人の妾になった婦人をいい、外国との窓口になった長崎と下田にいた。第一号のオランダ領事の妾が最初である。お吉以後も、横浜でラシャメン呼ばれた女性が生まれている。こういった女性たちも、日本の近代の歴史の進展に何程かの役割を果たしたのである。
「どうせ正気じゃ世渡りできぬ 剣菱 持て来い 茶さん酒」「さめちゃ浮き世がうろそてならぬ」という言葉もお吉のものだ。
唐人お吉記念館のある宝福寺には、お吉の墓がある。粗末な墓と、後に建立した墓と二つある。新しい墓には椿の花が咲いていた。
椿は落ちても散らない、凜とした花であり、信念を貫いた、ぶれなかったお吉に似合う花だと墓掃除をしている婦人に教えてもらった。
この寺は、坂本龍馬と縁がある。幕府の高官・勝海舟(1823−1899年)と土佐の山内容堂(1827−1872年)がこの寺で会見をしており、そのときに土佐脱藩浪士・坂本龍馬の赦免を取り付けた場所である。容堂は「歳酔三百六十回 鯨海酔候」という色紙を残している。「その坂本とかいう者、それほどに思われてとんだ果報者でござるな」と容堂はいい、翌年2月に正式に赦免されている。ここから龍馬の活躍が始まる。
この下田は、吉田松陰が密航を企てて、ペリー艦隊に小さな小舟で乗り込んだ地でもある。ちょうどNHKの大河ドラマ「龍馬伝」で、このシーンを訪問した日にやっていた。下田港の風景を懐かしみながた見た。「寒椿 唐人お吉に似たる花 落ちても散らず凜として咲く」は私の駄首である。