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「名言との対話」10月4日。日野原重明「しかし、人間は生き方を変えることが出来る」

日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44)10月4日 - 2017年(平成29)7月18日)は、日本医師医学博士聖路加国際病院院長

1970年3月31日の共産主義者同盟赤軍派による日航よど号ハイジャック事件が起こる。日本初のハイジャックであった。この便に乗り合わせた聖路加病院内科部長の日野原重明は、犯人が「この飛行機はハイジャックされた」と乗客に放送すると、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取ることです」と解説している。弟子吉利和東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康管理にあたった。韓国金浦国際空港で解放される。事件に遭ったのを契機に内科医としての名声を追求する生き方をやめた。このとき日野原は59歳、助かった日野原はこれ以降人生の目的を一変する。

日野原の医学観を聴こう。「医学とはサイエンス(科学)の上に成り立っているアート(芸術)である」。日野原は優秀な医師であり、48歳の時に、90歳を越えた最晩年の鈴木大拙を診ている。婦人解放運動家・政治家でセンテナリアンだった加藤シズエは102歳でガンの手術をする。見舞いに来た日野原重明先生から「この病院(国立がんセンター)はじまって以来、最高齢の方の手術が、こんなにうまくいって、本当によかった」と手を握って喜んでくれたそうだ。

しかし、何といっても、日野原重明が有名になったのは、高齢者としての生き方だった。90歳の時書いた著書『生き方上手』は120万部のベストセラーになり、この時点で日本最高齢のミリオンセラー作家となった。

「本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである」「死はグッバイではなく、シー・ユー・アゲインなのです。天国でまたお会いしましょう、というしばしのお別れです」

「文藝春秋」に載っていた「健康心得」10箇条が参考になる。1.小食(「腹七分)。2.植物油。3.階段は一段飛びで(絶対にエスカレータには乗らない。競争する)。4.速歩。5.いつも笑顔で。6.首を回す(風呂で首を上下左右に回し、最後は耳が水面に触れるまで横に倒す)。7.息を吐ききる(うつぶせで眠ると腹式呼吸になり、いびき、肩こり、腰痛がなおる)。8.集中。9.洋服は自分で購入。10.体重、体温、血圧を計る。

アルフレッド・テニスン(19世紀の英国の詩人)「 私はこれまで会ったすべての人の一部分だ。」。日野原が影響を受けた言葉である。日野原重明自身も多くの日本人に影響を与え続けた。例えば、「文藝春秋」2017年9月号に、柳田邦男が、「追悼 日野原先生から学んだ「生と死」を書いている。そこから日野原語録を拾ってみる。「すばらしい言葉に出会ったら、必ず原典に当たり、その人物と文脈を理解するようにすると、好きな文句は必要な時にすっと出てくるものです」「いくつになっても創めることを忘れない」「年をとること自体が未知の世界」。作家の童門冬二は「高齢者になったら、そばにいてくれるだけでいい人になりましょう。聖路加病院の日野原先生のように、という、私なりの生涯学習の目標がある」 。日野原を励みにしながら小説の執筆を続けている。

2010年11月7日、新横浜の新幹線ホームの待合室で偶然に隣に座って言葉と名刺を交わしたことを思いだす。その時、「こんなことをやっています」ともらった名刺は、「新老人の会」の代表という肩書だった。75歳以上を新老人と呼び、自分自身を健康情報の研究に活用しようという団体だ。この時は、99歳だったのだ。その75歳から30年という歳月を日野原先生が生き抜いたのは見事だ。新老人の生き方のモデルである。

やるべき崇高な仕事があり、その生き方が多くの人に夢と希望を与える壮大な人生だった。日野原は100歳を越えても、進んでいく。今までやったことのないことをする。会ったことのない人に会う。常に自己革新を続ける。103歳で初めて馬に乗る。104歳の誕生日には100歳から始めた俳句を104つおさめた初めての句集を出版する。そしてフェイスブックも始めている。3年先まで埋まっている手帳を持っていたことにも驚いたことがある。前半は自分のため、後半は人のために生きたのである。二つの人生を生きた、人生100年時代のモデルである。「大人期」(95歳から110歳)まで活躍した人生は見事だ。105歳287日まで生き切った日野原重明は聖なる人になった。

「しかし、人間は生き方を変えることが出来る」は、還暦を前に遭遇したハイジャック事件で命拾いをし、神からプレゼントされた命を、新たな使命を以て生きることを決心した人の言葉である。この言葉を頭において、人生100年時代を生きたいものである。



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