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「名言との対話」1月20日。いずみたく「ボクは一切既成のものを調べるのはやめたよ。自分で考えて自分なりのものを作ってみたい」

いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本の作曲家。参議院議員(第二院クラブ)。

仙台陸軍幼年学校、鎌倉アカデミア、中央演劇学校。「ボクは、将来、何か残さなくてはいけない」と考え、22歳の春に「音楽しかない。ボクの進む道は音楽しかない」と決意する。28歳、なんとか音楽で生活できるようになった。30歳、永六輔と初のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」をつくる。34歳、「夜明けのうた」が大ヒットしレコード大賞歌唱賞。37歳、永六輔、野坂昭如ら多くの才能が集まっている三木トリロー冗談工房に入る。野坂と「国際芸術協会」という名のCMソング制作会社を設立。35歳から39歳の間で永六輔と組んで「日本の歌」をつくろうと52曲を作曲し、レコード大賞企画賞を受賞。CMソングでグランプリを受賞。劇団四季の浅利慶太と15年間にわたり毎年ミュージカルを作る。作家は、寺山修司・石坂浩二・飯沢匡・矢代静一・井上ひさしらだった。39歳、フォンテーヌ・レコードKKを設立。43歳、ミュージカル小劇場・フォンテーヌ・ビルが完成する。建設費1億2千万、借金7千万。45歳、いずみたくミュージカルアカデミーが発足。47歳、ミュージカル集団・いずみたくフォーリーズが発足し、10人で10年間500ステージを以上をこなしている。51歳、盟友の二院クラブの青島幸男が辞任し、参議院議員になってしまう。、、、、、、、、。

「ボクには先生、または師匠といえる人は一人もいない。、、あえていえば、ボクの師匠は「ベートーベン」とでもいえるだろうか」。昼は肉体労働、夜に毎日2-3曲を作曲するという生活を実行した独学の人だ。

例えばレコード大賞を例にとって仕事ぶりを垣間見よう。1963年から1971年まで毎年レコード大賞の各賞に関係しているのは圧巻だ。「見上げてごらん夜の星を」「夜明けのうた」「「おしゃべりな真珠」「にほんのうた」「世界は二人のために」「恋の季節」「いいじゃないのしあわせならば」「にほんのうた」「夜明けのスキャット」「十二人の女」「昔一人の歌い手がいた」。作曲賞2回、企画賞2回、そして大賞1回である。

『新ドレミファ交遊録 ミュージカルこそわが人生』(サイマル出版会)という自伝を楽しくを読んだ。「出会い」の人という印象をもった。傑出した才能は、多くの人を呼び寄せ、圧倒的な量の仕事に結実していく。それが質もどんどん高めていくというサイクルだった。すぐに仲間と会社やグループを旗揚げする。一種の起業家だ。

歌は1万5千曲(CMソング1000曲以上)。ミュージカルが100本。加えて舞台、映画、TVドラマの曲の加えると数はわからないという。日本一の作曲数ではないか。古関裕而の5000曲など人物記念館があるような作曲家は生涯で3000から5000曲をつくっているのだが、62歳と若い年齢で亡くなったいずみたくの仕事量は群を抜いている。来た仕事はぜったいに断らない主義がその偉業を助けた。

この本の「多くの仲間あればこそーーまえがき」は、1992年2月に書いている。そして5月に亡くなっているから、いずみたくは集大成、あるいは遺書のつもりで書いたのだろう。思い出したのだが、岩波ホールの高野悦子は2013年の2月9日に亡くなっている。「岩波ホールと『映画の仲間』」(岩波書店)の発行日は2月27日。そして「あとがき」は2013年1月だった。大腸がんにおかされて余命わずかの日々に、分厚い本を最後まで書き終えたのである。いずみたくも同じだった。

「芸術家はいつも若く、いつもスタートラインに立っていなければ、よい仕事ができないのだ」と全力疾走の日々を送ったいずみたく、は「仕事をやめて、ペンを置いた時は、ボクは死ぬ時なのかもしれない」といつも言っていたが、そのとおりになった。この人の独学の精神と起業家精神には深く共鳴する。

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