「名言との対話」 9月21日。御木本幸吉「わしは、志摩の尊徳になりたい」
御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 昭和29年(1954年)9月21日)は、日本の実業家。
真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者で、ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。
父のうどん屋を手伝いながら海産物商を営む。1890年、アコヤガイ(真珠貝)の養殖に着手し、英虞湾で養殖真珠の実験を開始する。1893年箕作佳吉らの指導のもと半円真珠の養殖に成功。1899年東京に御木本真珠店を開店。真円真珠養殖法を発明し、1908年には特許を取得。日本にとどまらず、ロンドンやニューヨークなど海外にも直販店を展開する。世界各地の博覧会にミキモトパールを出品。「真珠王(pearl king)」と称される。1938年、貴族院議員に就任。
海の宝石と言われる天然真珠は千個に一つしか見つからない。そして色、光沢、形の三拍子そろったものを入手するのは奇跡である。御木本幸吉は、真珠養殖を男子一生を賭けるに足る大事業と考え幾多の困難を乗り越えて邁進する。
半円真珠の誕生時は、幸吉35歳、妻うめは30歳。うめは32歳で他界する。幸吉は38歳から生涯独身を通した。半円真珠から10余年後に、ようやく真円真珠が誕生する。
今回読んだ『真珠王ものがたり』から、「御木本幸吉の言葉を拾ってみよう。
人生観は「災いを転じて福となす」。信条は「禍を転じて福となす」。事業のモットー「御木本の仕事は三段構え」。
エジソンとの会談でエジソンは「どうしてもできないものが二つ。ダイヤモンドと真珠だ」と讃えた。伊勢神宮に行幸された明治天皇に拝謁した時、御木本幸吉が陛下に申し上げた言葉は「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」と語ったことは有名だ。
「商売人は信用が第一。先んずれば人を制する機知を働かせねばならん」。「普通の人間が考えたり、したりしていることをしていては、普通の人間にさえなれない」。「わたしのつくる真珠は人の涙の結晶で」。「わしは、毎日地球を三回まわっている」。「永い航海には荒波もあれば平穏な日もある。いつも朗らかに笑ってこれを乗り切ってこそ、何事も成し遂げられるのだ」。
96歳まで生きた御木本幸吉の健康法は、「うまいものなら二箸残せ」「朝三杯、昼二杯、夜一杯」「夕飯は一割残す」、「9時にニュースを聞くと、胃腸と一緒に寝る」という胃腸中心の生活だった。 最後の言葉は「すんだね、ありがとう」だ。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。
御木本幸吉の生きた1858年から1954年までとはどういう時代であったか。生年の1858年は安政の大獄のあった年だ。日清戦争。日露戦争。第一次世界大戦。関東大震災。世界恐慌。日中戦争。太平洋戦争。敗戦。朝鮮戦争。サンフランシスコ平和条約。そして第五福竜丸が被爆した1954年に死去している。100年近く生きるということの凄みを感じる。
「わしは、志摩の尊徳になりたい」「わしの理想は小学生の手本になることだ」と常に語っており、二宮金次郎尊徳を尊敬していた。89歳になった1947年、小学校5年生の教科書に「真珠」と題した幸吉の物語が掲載された。「小学生の読本にのるような人物になりたい」という志を遂げたのである。人生のモデルを持ち、それを実現した御木本幸吉の人生は見事なものだ。